長崎を旅していますが空港から長崎市には向かわずに今回は島原半島を旅します。湧水とキリシタンの面影残る島原半島を訪れてみます。(201705)
島原鉄道の島原駅に降りたちました。なかなか雰囲気のある駅舎です。いきなり駅にも鯉の泳ぐ堀がありました。
ホテルに着いて窓を開けてみると目の前には島原城の天守閣がそびえています。ちなみに夜もライトアップされています。
遠くから見ても層塔型5重5階天守が立派でなのが分かります。
まずは武家屋敷を散策します。島原城の西一帯の鉄砲町と呼ばれる地域ですが、隣家との間に境がなく鉄砲の筒の中を覗くように武家屋敷街が見通せたのでその名がつけられたと言われています。街路の中央の水路には今でも湧水が流れています。
武家屋敷街の案内板ですが当時屋敷が700軒もあったことに驚かされます。
茅葺屋根の屋敷跡が残り内部の見学ができます。
当時の住まいの雰囲気はこのような感じであったのでしょう。
このような姿で暮らしていたのでしょう、中村主水の家族の様です。
篠塚家、山本家、島田家などが開放され当時の武家生活の様子を見ることができます。
当時の鐘(復元)時鐘楼です。
島原城の外堀を散策していましたら全く偶然に吉田松陰の来訪の地の碑を見つけました。1850年12月にに吉田松陰は平戸を訪れていますが、島原にも立ち寄り宮川度右衛門守興邸を訪ね鉄砲や兵法について語り合ったようです。島原には一週間ほど滞在したようです。
吉田松陰来訪の地です。
湧水と鯉の泳ぐ街、島原を象徴する湧水庭園の四明荘を訪れます。
座敷は正面と左側面の二方が池へ張り出して縁を廻しており庭園も雰囲気も素晴らしいです。
水が湧き、風通る座敷、水澄んだ池には鯉が漂い、時間を忘れていつまでも眺めていることができます。
近所の家の周りにも水路が通りきれいな水が流れています。
狭い水路にも暑くて日差しが強いので鯉たちが石の下に隠れていました。
さていよいよ100名城の島原城にやってきました。
武将の幟が立ち並び城の雰囲気が盛り上がってきます。
一応島原城の由来がありましたが島原城の築城は関ヶ原合戦や大阪の陣で軍功を上げた松倉重政によります。7年の歳月とおびただしい労力を注ぎ込んで完成させた島原城ですが当時4万石の小大名にはあまりに過分な城であったと言われます。
すぐ真下から天守を見上げると望楼ではなく層塔型5重5階天守で規則則的に上に置くほど小さくなっているのがわかります。松倉重政が島原城の築城に着手したのが1618年と言われますが関ケ原以降はこの層塔型が主流になってきていると言われます。
層塔型というのはなかなか美しい形状ですね。
天守閣の中は各階がテーマごとに分かれており松平家に伝わる甲冑などが展示されています。
5階最上階にやってきました。
1792年の地震と普賢岳の噴火により山自体が崩壊し多量の土砂が有明海に流れ込んだことにより島原大変肥後迷惑が発生したその眉山がよく見えます。
天守から島原駅と島原湾を見渡せます。
城内には松倉重政の祭祀祠もありました。
外から島原城全体を見渡しますがカメラに収まりきれないような膨大な広さ、特にその総石垣の作りは非常にスケールが大きくてとても4万石の松倉氏にしては不相応でしょう。これが島原の乱につながっていくわけです。
この石垣の折れ曲りの美しさは芸術品ですね。ただしこれを作り上げるために何万人もの領民がこき使われた結果とおもうと複雑な思いがしますね。
島原の郷土料理はいろいろありますが今回は地元の有名なスイーツということで元祖の店で「寒ざらし」を頂きました。浜の川湧水のすぐそばでこんこんと水が湧き出ています。
白玉粉で作った団子を島原の湧水で冷やして蜂蜜と白砂糖で作った密に漬けて食べるスイーツです。大寒に原料の米の粉をさらすことから寒さらしと呼ばれるそうです。このお店では昔のタイルのシンクが今もそのまま使わており湧水に漬けて冷やしています。
アーケード商店街を歩いたところにある江東時寺に立ち寄りました。島原城主松倉重政の菩提寺です。
ここには島原の乱の二人の墓碑があります。島原城を築いた松倉重政(右)と島原の乱鎮圧で派遣され戦死した板倉重昌(左)の墓碑です。
駅の近くのアーケードですがあまり人が歩いていなかったです。
夜は温泉で癒されたいと同じくアーケード沿いにある日帰温泉に入らせていただきました。島原温泉「ゆとろぎの湯」です。(520円)気持ちよかったです。
さて1日目は温泉で癒されてゆっくり休めました。あすは島原半島を南下して旅を続けます。 (つづく)その②へ