
重文の天秤櫓から廊下橋が出ているのが珍しく感じます。戦時には落として敵の侵入を防いだのだろうと思われます。

天秤櫓を正面から見たところです。戦時にこの手前の廊下橋が落とされるとすれば敵は櫓に近づけなくなってしまいます。

当時の天主が残る12城の一つ、中でも犬山城、姫路城、松本城と並んで4つの国宝のお城です。内部も当時の雰囲気をそのまま感じることができます。

階段も急で観光客には不便さが逆に当時の姿を肌で感じれます。

琵琶湖に面した方向にはくの字型をした西の丸三重櫓が立っています。これは湖上の警備、監視のために建てられたものです。

広々とした彦根城を水上から楽しむこともできます。井伊家ゆかりの御好屋形船を再現沿した屋形船でお濠をぐるっと回ります。


さて彦根、彦根城と言えば佐和山城跡にも行きたかったのですが、山頂までハイキング気分で30分とのことで今回は諦めました。石田三成の居城もぜひ見なければと思いますが、敗者は徹底的に破壊され彦根城に生まれ変わっていますので、本当に名残を見るしかありません。また次回、時間のたっぷりある時にとっておきます。電車から看板のみを確認します。
次に訪問したのは豊臣秀次が築いた城下町、近江八幡市です。秀吉に自害させられた秀次ですが、琵琶湖の水運を生かした街つくりなど商人の街の礎が今の繁栄につながっています。この大きな門は日牟禮八幡宮です。
近江商人の信仰を集める守護神に今後の商売繁盛をお祈りします。
そして秀次の作った八幡堀にやってきました。琵琶湖につながる運河を引いたことで近江商人の街が発展する基になったと言われます。絵になる風景です。安土城の建物や城下町を移して繁栄も近江八幡の街につながっていきます。
八幡山城跡を見に片道4分のロープウェイに乗ります。
可愛らしい15人くらいコンパクトなケーブルカーで上がっていきます。
ロープウェイを降りると山頂付近に石垣が残ります。本丸・北の丸・西の丸・二の丸を配した総石垣の城であったようです。秀次の後に京極高次が城主になりますが、城としてはわずか10年で廃城となります。
本丸跡には、1962年に京都から移された瑞龍寺があります。
北の丸の址です。
西の丸の址です。眼下に広がる琵琶湖の眺望が素晴らしいです。
そして山頂駅が二の丸址となります。
ロープウェイから近江八幡の街を見下ろせます。本当に素晴らしい景色の山城だったわけですが、戦国時代の戦乱の歴史もまさにここで起こっていたということです。町並みは横筋4通り、縦筋12通りを中心に碁盤目状に作ったと言われ商業の発展を第一に考えているた結果と考えられています。
さてここから移動しまして湖北の拠点、黒田家発祥の地となる木之本駅に着きました。今は大河ドラマ展開催など歴史に湧く街です。この駅を中心に戦国の旅に出発します。
さてこの駅の近くに北国街道の宿場町の名残があります。中でもこの馬宿平四朗は後の長浜城主になる山内一豊が名馬を10両で買ったと言われる名馬の市場が開かれた場所です。
山内一豊が馬を買った経緯が書かれた表札が立っていました。
さてそしてもう一か所賤ヶ岳古戦場を訪づれたいと思います。
信長無き後に天下統一の主導権争いが激化しますが、中国大返しから明智光秀を討った秀吉と、柴田勝家との合戦の舞台です。余呉湖など景勝地でもありぜひリフトで上がりたかったのですが、あいにく雷が近づいてきて危険なため断念しました。
賤ヶ岳の七本槍など武将の名の幟が建っていますが、本当に鬱蒼とした森と山が続きます。山頂には戦場の碑や像があるそうですが、リフト以外に登る方法が無い(徒歩もあるが)ために今回は諦めます。
少し離れた位置から見た賤ヶ岳の様子です。山に細い筋がありますがリフトの道です。
さてさらに車で小谷城に移動します。激しい雷雨が来て予定が変更余儀なくされます。まずは雨宿り兼ねて小谷城戦国歴史資料館に入ります。浅井3代の栄華の歴史を見てとれます。長政が信長に反旗を翻したのも謎ですが、結果的には判断ミスとなり徹底的に滅ぼされます。
展示物を見ても小谷城は尾根に沿って城や屋敷が連なり、攻め難く、歩いて回るのもどれくらい時間がかかるか分からないくらいです。信長、秀吉は良く攻め落としたですね。でもお市の方と三姉妹が助かったお蔭で浅井の血筋は天皇家にまでつながります。
これも佐和山城と同じで、老後に時間ができたら史蹟を歩いてみたいと思います。とても簡単に見て歩ける規模でも無いですね。 外から眺めると史蹟の看板が出ていますが、山と尾根全体が小谷城という感じです。
本当に近江は古戦場とお城の史蹟だらけで知れば知るほど面白い、歴史好きにはたまりません感じです。今回は無謀にも1日日帰りの旅で生憎の悪天候で思うように回れませんでした。また第3回を紅葉時期にでも実施したいです。(36)