城好きとしては豊後森に来たからには続100名城の一つに認定された角牟礼城の登城したいと思います。一般には角牟礼城はあまりなじみが無いと思いますが、豊臣秀吉の時代に島津の攻撃を防ぎ切った難攻不落の山城として知られています。
豊後森駅から北へ向かいますが昔風の町並みは趣があります。日本一小さい城下町とも言われました。1万4千石の小大名で城を持つことは許されなかったということです。大分は小藩分裂で細かい藩に分けられていましたが唯一城郭が無く陣屋を中心に町屋などが整備されていました。城を持ちたくて歯がゆい思いをしていたという事でしょう。
やっと角牟礼城への看板を発見。山城ですのでここから山道を登っていきます。
車で約10分ほど登って着いた駐車場のあたりに石垣が見れますがこの辺りは城の三の丸があった場所ということでした。
角牟礼城は堅牢な山城で島津軍の侵入から守るために大友宗麟の頃からその防御の役割を果たしていたようです。その後大友吉統の失脚により後の佐伯藩主の毛利高政が秀吉の命で入城し現在の城の原型を作ったのではないかということです。
関ヶ原の乱で西軍に着いた村上水軍の来島一族は海の無い森藩に移封されまさに陸に上がった河童の状態になってしまうのです。さらに築城も許されず陣屋を居住地にしたと伝わります。来島一族はこの地で相当に辛い目にあっていたと想像できます。
木々が茂った山道を登りますが紅葉や石垣を眺めながら登ることにします。
現在残る遺構は大友に代わって入城した毛利高政の時代によるものと言われています。
登っていくとかなり古い積み方の石垣群が目の前に現れました。時代の古さを感じます。
礎石が見つかったことでに二の丸の建物が建っていたと推測できる場所が残ります。
瓦やかんぬき金属が出土したということで西門があったと確認できた場所です。
山腹に立派に積まれた石垣がそのまま残っているのが分かります。
この石垣の先は断崖でまさに山城の要塞となっています。
木々が成長し道が分からなくなっているような場所もありますが落ち葉を踏みしめて登ります。坂はそれほどきつくはないです。
約10分ほどで角埋山の山頂で標高577メートル本丸跡の場所に着きました。当時どんな建物が建っていたかは分かっていません。
視界は素晴らしく360度が見渡せて敵の動きなどもすばやく見てとれていたでしょう。回りは断崖のまさに要塞の山城で島津との戦いでも落ちなかったことが理解できます。
また中腹には末廣神社が建ちますがこれは来島先祖の地の三島宮から分霊を勧進したもので、故郷を思いまた何とか城を建てたいとの願いをかけていたのかも知れませんが願いは叶わず豊後で唯一城郭の無い藩として幕末を迎えます。
この神社にも来島家の思いが強くかけられていたのを感じます。
社殿は立派な造りで非常に雰囲気がありますね。
境内には日本一大きな手水鉢があります。大きな石をくり抜いたものだそうです。
末廣神社の参拝の帰りに旧久留島氏庭園の公園にある森藩の資料館に寄ってさらに森藩について勉強しようと思いましたが本日は休館のようでした、残念!。豊後八藩はそれぞれに独自の歴史や成り立ちがあって興味深いのです。
そして向こうに見える大きな岩のテーブルに目を奪われますが、これは大岩扇山(おおがんせんざん)と呼ばれる,標高691メートルのテーブル状の形をした卓上台地の山だそうでこの辺りにはこういう形状の山々が多く見られるということです。山全体が隆起しているようで圧巻です。
そしてこちらが玖珠で生まれ日本のアンデルセンと呼ばれた久留島武彦先生の記念館になります。
久留島武彦先生が暖かく出迎えてくれます。
明治7年玖珠町森の旧藩主(来島)の家に生まれたということがまず驚きでした。
様々な功績がありますが誇張ではなく日本のアンデルセンと呼ばれた理由が理解できます。
明治の頃に英語ができあちこち外国を訪問したことにより新しく進んだ教育の考えを日本に持ち込んだ方であったようですね。
旧久留島氏庭園に建つ童話碑です。毎年の童話祭もここで開催されます。
三島公園の一角ですがここにも立派な石垣が使われています。
広大な旧久留島氏庭園です。
城下町の通りにも久留島先生の銅像が建って町の子供たちを見守っていました。
町のあちこちに童話の銅像が建っているので探して回るのも面白いです。