春の日に日本橋から東海道を歩こうというイベントに参加しました。お江戸の日本橋を想いながら歩くと普段と違うものがいろいろと目に飛び込んできました。(2016/03) けっこうパワースポットも多く存在しますね。
お江戸日本橋は東海道の江戸の出発点です。起点ということでモニュメントが置かれています。
元々は家康の日本全国道路網整備計画で橋が架けられ、五街道の起点として整備されてきた日本の中心の場所です。
写真の左下になりますが、道路の真ん中に起点で接近ができませんが丸いプレートが設置されています。まさにここが東海道の出発点になると言うことができます。ここを出発して品川宿まで歩きます。
日本橋から高島屋前を通り銀座方面へと歩きます。
途中東京駅から東に延びる八重洲通りと交差しますが交差点の真ん中にモニュメントがありますが、八重洲という地名の基になったヤン・ヨーステンの顔とリーフデ号のレリーフが設けられています。オランダ人のヤン・ヨーステンはリーフデ号の航海途中に漂流したことで徳川家康の通訳として仕え家屋敷も置かれたということで八重洲の地名が生まれました。ちなみにリーフデ号が漂着したのは大分県の臼杵湾と言われていまして黒島にはリーフデ号漂着の碑が建っていました。
八重洲の地下街の外堀1番通りにもヤンヨーステンの像がありますが普段はなかなか見逃しがちですね。足を止めて見る人もいないですが、通る人を見守っているような印象です。ヨーステンはのちにオランダへの帰国を希望しジャカルタへ向かいますが途中で船が難破し帰らぬ人になったということです。
東京駅の丸の内側にもヤンヨーステンの関連の展示物が見れます。丸ビルの西側にはオランダから贈られたリーフデ号の像が置かれています。このあたりにヤンヨーステンの屋敷があったと言われています。
東京駅にも史跡はありますのでこの場で紹介したいと思います。
丸の内口の切符の自動販売機横には原首相遭難現場のプレートがあります。大正10(1921)年11月4日午後7時25分頃、列車に乗る為に改札へ向かう原首相が暴漢に短刀で刺されたという現場です。原首相はほぼ即死であったということです。足元にはその現場を表す印を見ることができます。
また改札に入り新幹線乗り場に向かう小階段の傍らの柱にも同様のプレートが見えます。浜口雄幸首相が狙撃された現場です。昭和5(1930)年11月14日、岡山へ出かけるために東京駅の4番ホームを歩いていた浜口首相は暴漢に近距離から腹を撃たれその場にうずくまったということです。一命は取り留めたものの体調は戻らず内閣は総辞職し、浜口も翌年夏に死去しました。
外堀通りに沿った東京駅の東側のトラストタワーには史跡が見て取れます。このあたりは北町奉行所のあった場所ということでその下水溝の石垣が残ります。
東京駅の回りはオフィスビルが多く建ちますが石垣を残し史跡として見ることができます。
よく見ると東京駅の大丸の南側に北町奉行所の史跡を表すパネルが建っていました。グラントウキョウの整備により現在の場所に移ったとのことです。
ちなみに南町奉行所はどこにあったかというと有楽町駅前に石垣のモニュメントが設置されています。有名な大岡越前守忠相も1717年から1736年まで執務していた場所になります。
国際フォーラムの中には場違いの雰囲気の銅像がありました。これは江戸城の築城した太田道灌の銅像です。かつての東京都庁 があった場所であり都庁舎があった頃はそのシンボル的な存在であったとのこと。
少し東京駅からは離れてしまいますが、東京駅の丸の内側には強烈なパワースポットが存在します。大手町のビル街の中に少し雰囲気の違う一角が、平将門の首塚です。
平将門が処刑され首が京都に晒されたがある日夜空に舞い上がり東に向かって飛んでゆき落ちたと言われる場所で昔から祟りの噂など数々の逸話があり、まさに都市伝説の聖地ともいうべき場所です。
第二次世界大戦後にGHQ が周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたということで今もこのまま残されているのでしょう。
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