その①より続く
銀座通りを京橋から 銀座へ歩いていくとこれも新しい発見ですが江戸歌舞伎発祥の地の碑が建っていま歌舞伎は1603年出雲阿国が京都での歌舞伎踊りが始まり とされていますがその20年後猿若勘三郎が江戸の京橋付近に 猿若座(後の中村座)を開設したのが 江戸歌舞伎の始まりとのことです。
江戸時代から日本橋とともに有名な橋だった京橋川に掛る京橋は残念ながら昭和34年京橋川の埋め立てによって撤去されました。江戸の当時は木の橋であったでしょうがその後の橋の名残をとどめるものとして親柱が今も残っています。
さらに大正11年(1922)に設置された照明設備つき親柱1基が反対側の歩道に残されています。
そしてこの交番の屋根の形状です。おかしな形だと思われるでしょうが歴史を知ると納得できましたね。
これも完全に見落としますが二丁目のお洒落なティファニービルの前の花壇には銀座発祥の地の碑が建っています。江戸時代の貨幣の鋳造所がここにあったということで江戸幕府の経済を支え続けたのでしょう。
さらに歩いて銀座四丁目のパンの木村屋の前ですが、この古い屋号の看板は木村家とお付き合いのあった山岡鉄舟によるものです。鉄舟は江戸無血開城の際に勝海舟の使者として西郷に会うなど事前交渉に奔走したことで知られています。
ホコ天の銀座の中央通りを新橋方面へ歩き続けます。
銀座八丁目の天国を曲がった所に芝口御門の碑があります。碑文によると、宝永7年(1710)朝鮮の聘使の来日に備えて我が国の威光を顕示するために芝口御門が設けられた。同年に高輪大木戸を設け東海道の表門とした。幸橋門の下流に架かる芝口橋を渡り冠木門から枡形に入るあたりは、現在の銀座8丁目の中央通りである。汐留川の芝口門に架橋された当初は新橋(あたらしばし)呼ばれていたがのちに芝口橋と改称された。芝口門は15年後の享保9年(1734)に焼失して以来再建されず石垣も撤去され芝口橋はもとの新橋の旧称に復した。この橋が現在の新橋の地名の発祥の地である、とのこと。勉強になりました!。
芝に来ましたが東京芝大神宮の鳥居です。失礼ながらこれまで知りませんでしたが鎌倉時代には源頼朝の信仰も受けたなど由緒ある神社です。今回の歩きの成果の一つです。
芝は増上寺の大門が見えてきました。
大門から歩くと増上寺の次は三解脱門ですが江戸時代の面影を残す貴重な建物です。1622年の建立で国の重要文化財です。この門をくぐると貪、瞋、癡(むさぼり、いかり、おろかさ)から解脱できるそうです。
御存じ増上寺と東京タワーのアンマッチな風景写真です。もっと早い時間に行けば徳川将軍家墓所を拝むこともできましたが今回は品川まで歩くため時間がありませんでした、また次回。
鐘楼堂(戦後の再建)がありますが、江戸時代の川柳に「今鳴るは芝か上野か浅草か」というのがあります。芝は増上寺、上野は寛永寺、浅草が浅草寺のことで、当時は鐘の音が江戸中に響き渡っていたのでしょうね。
さらに田町駅近くですが有名な西郷隆盛、勝海舟の江戸無血開城会談の碑が建っています。
さらに高輪まで歩いてきた所に先ほどの新橋の芝口御門と対になる高輪大木戸の史跡が残っています。
後ろの石垣が当時の歴史を感じさせます。
さらに歩いて私は初めて来ました赤穂事件で有名な泉岳寺です。
ひときわ立派な墓が藩主の浅野長矩の物です。元禄14年(1701年)3月14日、江戸城中で吉良上野介 に対し刃傷沙汰に及び即日切腹となってしまったのでした。
四十七志一人ずつが眠る石碑で参拝者の線香が消えることが無いようです。
日本橋から歩き続けてやっと品川宿の商店街までやってきました。ゴール(品川宿跡)まではもうすぐです。
この商店街にも有名な史跡がありますが土蔵相模と呼ばれている屋敷跡です。1862年12月12日夜、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文ら松下村塾出身者がここで集結し、品川御殿山に幕府が建設中の外国公使館を焼討ちを実行しました。今でいう完全なテロ活動ですが伊藤博文は後の総理大臣ですから驚きです。
本当にこの頃の長州藩士たち(高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文・・)は過激でハチャメチャという印象が強いです。
やっとゴールの品川宿まで着きました。日本橋から約10キロの行程でしたが新しい発見も多く本当に勉強になりました。
次回からこのまま東海道を歩き続けて行きたいのですがまだ今は時間的に無理の様です。東京は歩けば歩いただけ新しい発見や歴史の奥深さを見つけられると感じました。(26)