初めて有名な潮待ちの港、鞆の浦にやってきました。まずはこの狭い鞆の浦の地域にある坂本龍馬の関連史跡を回ります。龍馬のいろは丸事件に関する史跡である以下の4つの場所といろは丸展示館を訪れてみます。いずれも散歩で回れるくらいの距離にあります。

鞆の浦の街を歩くとあちこちに分かりやすいイラストマップが立っているので迷うことなく散策ができます。

いろは丸事件でこの小さな港で龍馬が獅子奮迅に頑張っていた思いを見て回りたいと思います。

仙酔島ヘのフェリー乗り場の目の前には見えげるような石垣が目に入りますがここは福禅寺というお寺です。いろは丸の衝突事故の件で龍馬たちと紀州藩の交渉がここ對潮楼で行われたことでも知られます。

細い路地を上がると下から見えた城のような石垣が目につきますが福禅寺の入り口です。

座敷からの海の眺めは素晴らしく、1711年朝鮮通信使の李邦彦は「日東第一形勝」(東で最も美しい景観)と賞賛したと伝わります。

お寺の本堂ですがこの奥の海側に對潮楼がありますが對潮楼は1690年頃に建てられたものだそうです。

座敷に入るといきなり波穏やかで仙酔島や弁天島が浮かんでのどかな風景が目に飛び込んできます。

すばらしく美しい一枚の絵のような景観です。なかなかこのように美しい景色を楽しめる場所は無いと思います。龍馬もこの景色を見たでしょうが大事な船を失って景観どころではなかったでしょう。

ちょうど仙酔島に向けて平成いろは丸が出航していきます。時間を忘れていつまでも景色を楽しんでいたくなる気持ちになります。

次にいろは丸衝突の交渉が最初に行われた旧魚屋萬蔵宅です。龍馬たちの宿舎と紀州藩の宿舎の中間にあることから談判の地に選ばれました。

中に入ることはできませんでしたが建物の横に事件碑が建てられていました。

いろは丸は鞆の浦にけん引されている途中で沈没したのですが、鞆の浦に上陸した坂本龍馬が宿泊したのがこの桝屋清右衛門宅になります。いろは丸は大洲藩の船ですが廻船問屋を営んでいた桝屋清右衛門は大洲藩の御用商人だったということでここに滞在することになったとのではないかとの推測です。

屋根裏へ通じるような細い階段を登っていきます。

龍馬の過ごした隠し部屋と呼ばれる部屋がありました。

いろは丸事件の際に紀州藩の宿舎として使用された園福寺です。

この園福寺は今は鞆の浦を見下ろす高台にありますが昔は島だったそうです。あの村上水軍の一族が大可島城を築城し海上に睨みをきかしていたようです。

園福寺さんの入り口には見張りの様にねこがいましたが、そうこの鞆の浦は漁港のせいかやたらねこが多い街でもありますね。

鞆の浦のシンボルと言っても良いかもしれません常夜燈です。1859年に建造されて鞆の浦の“潮待ちの港”をずっと見守ってきました。

常夜燈のすぐ近くにあるいろは丸展示館です。1867年5月26日に鞆沖合で明光丸と衝突した龍馬の乗るいろは丸に関する遺物や写真・イラスト情報を展示する博物館です。

館内にはいろは丸の沈没現場から遺留品を探すダイバー達の様子を再現したコーナがありなかなかリアルです。

鞆港を訪れた龍馬らが宿泊した桝屋清右衛門宅の隠れ部屋の様子を再現しています。どうも龍馬はあまりこの頃から陽の当たる場所は似合わないようになってきていますね。

いろは丸の引き揚げ品が陳列されています。食器などの中には龍馬の使用したものもあるかもしれませんね。

私の新しい発見としては福山7代藩主の阿部正弘の功績が強調されていたことでした。幕末の鎖国から開国につながった時期の舵取りは想像以上に大変だったと感じますが人の意見を聞ける老中であったようです。

龍馬関連のお土産も多数ありました。龍馬のトイレットペーパーが面白かったですがさすがに申し訳ないですね。

坂本龍馬が鞆の浦で過ごしたのはほんの数日でその後は長崎へ移動します。それでもここで獅子奮迅の活躍で後で紀州藩に莫大な補償金を認めさせたわけですから龍馬の人生にとっても鞆の浦は特別な土地でしょう。

 

ちなみに平成いろは丸に乗って仙酔島に渡りましたがホテルの前にも龍馬が立っていました。

ホテルの中には等身大と言われる龍馬銅像が建っていました。

本当にここでも皆に愛されている龍馬ですね。 (26)