2日間の旅も徐々にクライマックスに向かいますが、いよいよ大野市にやってきました。ところが途中から大粒の雪が降り始め一面が雪野原になってしまいました。全く雪は予想していなかったので足元は普通のスニーカ履きでやばいことになってきました。いきなり雪国に来たようです。続100名城の⑦越前大野城はたいへんな山城ですので天守まで行けるか心配でした。

神社の参道の横から大野城を目指して歩いて行きます。気温がそれほど低くはないので凍ることはないのですが逆に足元はシャーベット状でびちょびちょになってしまっています。

ほとんど途中は登り道ですが雪で滑りそうで早くは歩けませんしすぐに水が足に浸みてきました。早くもぐちゃぐちゃです。

まだ紅葉も残っているのですが急な雪に重さで垂れ下がって登城を邪魔してきます。

途中の階段はイチョウの葉っぱとシャーベット状の雪でとにかく滑らないように恐る恐る足を踏みしめて登ります。この階段は怖かったです。

最後の階段ですがせっかく色付いたきれいな紅葉がありましたが雪を被って時々大きな雪の塊が落ちてきます。

最後の長い階段を登りきると目の前にやっと大野城の天守がうっすらと見えてきました。雪を被った姿がなかなか堂々としてかっこよかったです。なかなかこんな城の姿を見る機会はないですね。美しい姿です。

元々は織田信長より一向一揆を平定した恩賞に金森長近が与えられて城郭を築いたのが始まりと言われています。その後佐倉城の土井利勝の嫡男も城主を務めています。

現在の天守は1968年に元士族の寄付金を元に当時の絵図などを元に鉄筋コンクリートで再建されたもので中は資料館になっています。

窓から見下ろすと小天守も雪を被っています。小天守があったのかと気が付かされました。遠くからの眺めはまさに天空の城と言えるでしょう。

帰りも雪に覆われた道を滑らないように恐る恐る歩きながら降りていきます。紅葉を楽しむ余裕は全くなかったです。

さて今回の旅の最後を飾るのは日本最古の現存天守とも言われる12天守の一つ100⑧名城の丸岡城です。意外にも丸岡には雪は全く降っていなかったです。

越後の上杉謙信との対峙に柴田勝家が甥の勝豊に命じて作らせた城ですが1576年と言いますから440年も前の城でしょうか。犬山城と最古を争っています。2層3階の作りで外観は下板張りで古めかしく歴史を感じます。

現在は真っすぐな石段が伸びていますが途中に付櫓があったという資料もあるそうで左途中に石段が残っています。

石垣も小さめの石の野面積みです。

1階部分ですが通し柱が無く1階部分を作った上に2階3階部分を乗せるような作り方をしているようです。

1階は広くて武者走りの廊下がありました。

階段は67度もあってロープ無しでは登れません。ほとんど梯子に近い状態です。

2階の部屋ですが柱は1階とはつながっていませんね。

2階には畳2畳位の出部屋があって外を覗くことができます。

丸岡城の特徴ですが瓦には笏谷石が使われています。雪が積もる寒冷地ならではの特徴です。

3階の最上階ですが四方に窓が開いて回りに見張りの機能が十分に果たせたことでしょう。

最上階には廻り縁がありますが出口が無いために窓からしか出入りができないですね。後から付けた可能性が高いとのこと。

紅葉した木々を上から見下ろしています。

また丸岡城は一筆啓上の短い手紙でも有名ですね。「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」、徳川家康の家臣本多作左衛門重次が長篠の陣中から妻に宛てて送った手紙として有名です。お仙とは後の丸岡城主本多成重(幼名:仙千代))のこと。

一筆啓上の館も建てられています。

確かにその古さは国宝に値しそうですが松江城の様に築城時期を特定できる祈祷札のような物が出てこないと今は決め手が無いとのことでしょう。地震もあって崩壊したために材木を組直して手が入っていることも支障になっているのかもしれないですね。

 

こうして無事に2日間で8名城を回ることができました。初めて訪れた城は、富山城、高岡城、金沢城、七尾城、越前大野城の5つでしたが良い城は何年か経った後にも訪れたくなりますね。城と言ってもみな特徴は違いますね。今回特に印象に残ったのは高岡城でしょうか、昔の縄張りをそのまま楽しめて現在に暮らす市民の人々とうま地域に調和しているように感じました。駆け足の2日間のツアーだったですが大変満足でした。また今回の旅で戦国時代の北陸の歴史にも関心が湧いてきました。利家とまつのビデオを最初から見てみようと思います。