大阪の2児放置死事件。
これが、社会を変える転機になれば良いと思う。
似たような虐待における被害者は沢山いる。けれど、いよいよ、つもり積もった哀しみや怒りが限界に達してきたのだ。堪忍袋の許容量は限界を超えた。
行政の対応を非難する声、母親を非難する声、これはいつもの反応である。
今回は、それに加えて、市民の他者への無関心が問われはじめたのだと思う。
もう、他人に無関心ではいられない程、この社会は疲弊している。
精神医療は、この社会の縮図です。
扱っているのが、国民一人ひとりの心の問題であるから当然です。
この幼稚な精神医療を変えられないことと、日本の国際競争力が低下していることは、同じことです。
かろうじて、国際競争力を持つ日本の製造業には、今、製造者責任という、ひと昔からは考えられない程の責任を負わされています。遥か昔に販売した湯沸かし器の不具合の責任まで負うのです。
ところが、日本では、製薬会社の製造者責任はあまり問われません。そこに医師が介在する事によって、巧みにその責任を回避しているのです。この問題も欧米とは違います。欧米は先に改善されるでしょう。
これは、フリーライターかこさんのブログ記事からの抜粋です。
記事名:当事者であること
経済評論家の内橋克人氏の講演、「市場・国家・いのち――経済とは何か」のなかで、氏がこう述べていたのだ。
「日本における公害、例えばこの水俣病の問題を筆頭に、最近ようやく持ち上がったアスベストの問題、あるいはC型肝炎の問題、これらに共通して言えることは、日本という国は、常に当事者自らがその因果関係を証明して初めて社会問題化するということです。あたかも、弱い立場にある被害者にその責務があるかのように。そして、政治にしろ社会にしろ、日本はそうした歴史から何も学ばない、学ぼうとしなかった国です。だから、何も変わることがない。同じあやまちを繰り返してしまう。当事者にすべてを押しつけるだけで……ある意味、非常に冷たい国だと言わざるを得ない。」
中略
被害が甚大になり、被害者の数も増え、こらえにこらえてきたものが、いよいよ我慢の限界を超えたとき叫ばれたその叫び声が聞こえるまで、国は腰をあげないのだ。
「社会問題化する」とは、被害がかなりの範囲で広がり、深度を増して、器から水が溢れるようになって、ようやく社会に認知されることをいうのかもしれない。
詳しくは、全文参照してください。
日本人には、民主主義を自分で勝ち取った経験がありません。
裁判にたいする誤認があります。裁判は、もっと身近で、どんどん利用すべきものです。民主主義の社会で裁判は市民に許された唯一の対抗手段なのです。裁判は特別な事ではありません。
裁判は、民主主義社会に備えられた自浄作用の要なのです。
医療過誤裁判には、様々な障害があります。
最大の障害は、かこさんのブログにある「当事者自らがその因果関係を証明する。」ということです。その他にも小さな障害は沢山あります。
裁判所自身が、本人訴訟をやりずらくしている面もあります。
けれど、それは乗り越えられます。
どうどうと権利を主張すればよいだけです。
ほんとうの壁は、心の中にあります。
一つ変えることが出来たなら、もっと変えることが出来ます。
その為には、まず自分が変わることです。
http://ameblo.jp/sting-n/entry-10094923735.html
それは、インターフォンの向こうの泣き叫ぶ子供に話しかけて、他者にもう少し積極的に関わることだと僕は思う。
そうすれば、教育や介護の問題も良い方向に進むはずです。
お節介な人が、煙たがられるような風潮になって、もうずいぶん時間が経った。
世の中の、大半の問題は、人と人との関係の中で解決できるということです。
薬なしでも。
精神医療には、社会のひずみを相手にしなければいけないという、生まれながらの使命があります。
その使命を担うことは、称賛に値することであるはずです。
尊敬され、多くの報酬があっても良いと思います。
ただし、そこに、他者への尊敬の念や思いやりがあればの話です。
もう機は熟しました。
哀しみや怒りが、器から溢れだしたのです。