べゲタミンの規制を訴えたら、べゲタミンユーザーから執拗な攻撃を受けました。
それと、最近、新しい読者が増えたので、私の主張が分かりやすいように、今日は、記事を整理しようと思います。
私は、精神医療による被害者の遺族です。
私自身は、薬を飲んだことも無ければ、その恩恵も知らないし、直接の副作用のつらさも知りません。
ですから、精神科の薬を既に服薬している患者さんには、個別のアドバイスなどは全くできません。
個々の問題に対して私は無力です。
しかし、私がそれら(薬と精神医療)ともともと無縁であったから出来る事がある。
社会にとって害があるかという視点と個々のケースの視点は違います。
いまだに、ご家族の中に被害者を抱える家族会と私の足並みがそろわないのも、その辺に原因があります。
私が、この問題に注力するようになったのは、哀しいことですが、妻を失ってからです。
全ての情報は、妻を亡くしてからのこの5年間で集めたものです。
今も、被害者を抱える家族は、その対応に追われ、この問題を追及する時間も余裕もないのです。
(私もやり過ぎで、会社無くしましたけれど。)
5年間、『当事者たる患者さんと医師、マスコミ、厚生労働省の役人、他科の医師』からの声、そしてネット上にあふれる膨大な情報、海外の情報を集めて来ました。
当初の目的は、個人的な妻の死の追及でした。
しかし、追及していくうちに、別の視点が生まれて来たのです。
その視点とは、精神医療に対する第3者としての視点です。
社会にとってのリスクとリターンはどうなのかという視点です。
この視点抜きに、裁判を闘えないからです。
テーマは、次のようなものです。
1.精神科に正しい診断はあるのか?
2.薬のリスクとベネフィット
3.多剤大量処方のリスクとベネフィット
4.製薬会社は、真面目に仕事をしてるか?
5.マスコミは、事実を報道しているか?
6.厚生労働省や政治はどう考えているか?
などです。
一つずつ、私の主張を解説していきます。
1.精神科に正しい診断はあるのか?
「やれ、うつ病だ」、「いや、発達障害のうつだ」、「統合失調症だ」との議論が、患者さんとそのご家族と医師の間で活発にされています。私から見るとまったくもって不毛な議論に見えます。
はなから曖昧なものをどんなに議論しても、結果は曖昧なままです。
その理由は、どの議論も、あまりにも、個々の主観によるものであるからです。残念なことに、その中心にいるのが専門家たる医師なのです。
唯一の病気の根拠であるセロトニン仮説についても、実証された研究はありません。あるのは製薬会社によるこれまた怪しい治験結果と医師の臨床経験だけです。
「最後にあった医師が名医」との言葉があります。
これは、色々な医師の治療を受けて、最後にたどり着いた医師で本当の病気にたどり着いた場合、最後の医師が名医と呼ばれるという話です。
これは、最後の医師にたどり着く前の医師によって、事前に色々な病気が除外されていった事により、本当の病気が導きだされたということです。
これを除外診断とよぶそうです。
百歩譲って、曖昧である精神医療のやり方としてはこの除外診断以外ないのではないでしょうか。
自分の患者さんが、セカンドオピニオンを受ける事を拒否する医師がいますが、それは論外です。
自身の診断に自信のない証拠です。
これは、精神科に限ったことではありませんが、様々な医師の診断を受けるのは、患者の基本的な権利です。
2.薬のリスクとベネフィット
問題は、その1の曖昧な診断に対して、そのリスク(副作用)が大きすぎることです。
薬には、必ず、副作用があります。診断が間違えば、副作用が出るだけです。
「薬は、長く飲まなければいけません」という言葉が最初から使われます。
なぜ、このような事が言われるのか、不思議でしょうがありません。
この根拠もまた曖昧です。
治らない、治せない事の最初からの言い訳のように聞こえます。
SSRIのような新薬に、最低でも1か月くらい飲まなければ効果が出ないという薬もありますが、薬を長く飲まなければ効果がないという薬の説明書きはどこを探してもありません。
根拠が、あるとすれば、そういう論文でしょうが、最近の新薬については、そもそも長く服用することの臨床データは当然ありません。
「薬は、長く飲まなければいけないという」根拠もまた曖昧です。
逆に、以前ブログで紹介したように、脳の研究者の長い研究結果で、薬を長く、そして大量に飲んでいる患者ほど脳が縮むという研究成果が発表されました。これは単純明快な事実です。
長く薬を服用するということは、様々な副作用に加え「脳が縮む」リスクとベネフィットを考えねばならないということでしょう。
ラボナやべゲタミンといった古い薬は、現在の最新の医師や看護や薬剤師のどの教科書にも出てこない薬です。その理由は、効果の出る量と致死量が非常に近くて、事故が起こり易いということと、ベンゾチアゼピン系の’比較的’安全な薬が登場したことによります。
私のような素人には、この薬が残っている理由が良く分かりません。
これについては過去記事を参照ください。
http://ameblo.jp/sting-n/entry-10556153123.html
http://ameblo.jp/sting-n/entry-10514968308.html
もう一つ、私が最近注目しているのは、デパスです。
ラボナ、べゲタミンほど無くすべきとの、確信には至っていません。
けれど、薬依存の悪循環の入り口の主役を担っているのではないかとの疑惑を持っています。
『覚醒剤と同じように「多幸感」がある』と指摘してくれた精神科医がいます。
その多幸感ゆえに、治ったと勘違いしたり、依存していくということです。
もう一つ、私が気が付いた問題は、
医師が、『医薬品の医師向け添付情報』をあまり重要視せず、守らず、自身の主観による治療を優先させているふしがあるということです。
これは、医療全体の問題であると思いますが、精神科では特に顕著です。
『医薬品の医師向け添付情報』を、例えば、生命保険の証書に小さく沢山書かれてある保険会社の免責事項の記述のように捉えているということです。
つまり、製薬会社を守る為に書いてある程度に考えていることです。
このことは、患者も医師も共に不幸です。
医師の臨床経験は大事ですが、薬のマニュアルはそれに勝るルールでなければなりません。
このままでは、欧米では、薬害裁判は製薬会社にたいして起こされますが、日本では医師に対して起こされるでしょう。
3.多剤大量処方のリスクとベネフィット
この問題は、私がこの問題に取り組み始めた5年前から比べると一番進展した問題です。
特にこの一年の進展は凄い。
最近は、多剤大量処方をしないことを宣言する病院も増えて来ました。
新聞の一面トップで報道されました。そして厚生労働省も撲滅に動き始めました。
この流れが止まらないことを願います。
この流れに私は自信を持ちました。これ以外の主張もこの問題の延長線上にあるからです。
http://ameblo.jp/sting-n/entry-10576983694.htm
http://ameblo.jp/sting-n/entry-10577333674.htm
4.製薬会社は、真面目に仕事をしているか
数年前の、気分が落ち込んだら病院へというまるで政府広報のようなCMは、結局製薬会社のキャンペーンCMでした。これは薬のマーケティングでした。悪く言えば洗脳です。
医師に全ての責任を押し付け、自分は医師の処方権の後ろに隠れ、単に利益をむさぼっています。
もちろん、役にたっている薬は沢山あります。
しかし、結果として、リスク・リターンのバランスがあまりにもおかしい。
私には、患者と医師のみがリスクを負っているように見えます。
海外では、製薬会社に対する訴訟が多発しています。
http://ameblo.jp/sting-n/entry-10559280198.html
5.マスコミは事実を報道しているか
これも、ここ1年で随分と変わりました。
精神医療に警鐘を鳴らすことに積極的なのは、読売新聞と毎日新聞です。
朝日、日経は相変わらず、精神医療への善意のゲートキーパー役を続けています。
TVでは、民放各社はいまだに変わっていません。
一番変わったのは、NHKです。
数年前までは、うつ病受診キャンペーンに加担していましたが、最近は、精神医療の問題に気づきました。
6.厚生労働省や政治
内閣府が、『眠れないお父さんは病院へ』というキャンペーンをやったのは、ついこの3月の事です。
これをやったのは、厚生労働省ではありません。
厚生労働省は、かなり正確に事実を掴んでいます。
政治家、もしくはその近辺に製薬会社のロビイストか、安易な点数取りを狙った政治家がいるということです。
厚生労働省は、本気で取り組み始めたと思います。
当然、一番、情報を持っているのは、厚生労働省です。
長妻厚生労働大臣に、「我々も薬漬け医療の問題は認識している」と発言させました。
厚生労働省は、この問題が、大きく表面化することを恐れていると思います。
現在は、少しずつ警告していくことで、精神医療が変わることを望んでいるのでしょう。
その警告で、責任逃れをしようとしているように、私には思えます。
それが、成功した時に、一番責任を負わされるのは、精神医療の医師達です。
もちろん一番の被害者は、患者さんであることは言うまでもありません。
これらが、今の私の主張(意見、見解)です。
皆さんはどう思われますか?
ここまで考えて、私は、亡くなった妻の死の原因を大体突き止めることが出来ました。
それを証明するために、証拠を集めました。
判断に資し得る客観的な証拠をです。
この客観的な証拠に対する反論も求めて来ましたが、そのほとんどは、客観的な証拠ではなく、あくまでも最初に指摘した『はなから曖昧なものをどんなに議論しても、結果は曖昧』なものでしかありませんでした。
事実を知るにつれ、私は、裁判相手の被告医師への怒りが減って行ったのです。
それは、彼を取り巻く社会のあまりのいい加減さに気が付いたからです。
怒りは、被告医師からその社会の方に移りました。
彼が、加害者であると同時に被害者である事にも気が付いたのです。
だからといって、彼の診断(診断等していない)と処方は許される代物ではありません。
彼のやったことは、ここで指摘した問題を見事に全て含んでいます。
個々の立場での苦情、曖昧な議論にはお答えできません。
そして、個々の問題には私は無力です。
私に出来ることは、この疑問を司法に問うことだけです。