自分の意志で買ったものは、すべて自分の分身であると考えている。

 

ある本で、ある喫茶店の店主が、「自分は踊った、あなたはどうだ」

と訴えることが、自分がコーヒーを入れるときに大事にしていることだ

 

といっていた。

 

すべてはこれに尽きると思っている。

 

自分は行動した。

それに対して相手がどういう反応を示すのか

 

その店主の言葉は、

 

コーヒーをお客さんにだして、ほっとしていただける瞬間を作りだしたいといっていた。

日々の喧騒の中で、外出していながらくつろげる瞬間を作りだしたいと。

 

そのためには、まず自分の開示が必要であると考えてる。

自分はこうだと示すことが

 

コーヒーを淹れる

もしくは料理を作るということは、

 

自分の意思の反映の結果であると考えると

 

コーヒーを飲んで、そのコーヒーになら、本当の自分を見せてもいいと

考えられた時にだけ、

ひとは安心する表情をすることができるのではないだろうか。

 

つまりは、コミュニケーションだ

 

コーヒーを飲んでもらう

それは、コミュニケーションになりうる行為だと思う。

 

自分で自分のためにコーヒーをいれる

それは自分自身とのコミュニケーションだ

 

誰かのためにコーヒーを入れる

そこに思いがこもっているのなら、

それでなにか伝わることがある

なにかわかることがある。

 

すべては自分の主張だ

生きることとは、

自分の主張だ

 

見えなくても

わからなくても

伝わらなくても

 

伝えなくてもいいと思っていても

それは主張だ。

 

生きるとは自分の表現だ。