その藤波戦後の会見で、かなりマッチメイクに不満をぶつけていた事をはっきりと覚えている。大体の内容は、「未だにアントニオ猪木がメインで、さらにその下に長州藤波が居て、さらにその下に俺らが居る、これじゃ未来がない」的な感じであったかと思うが、正直ファン目線からすればドームクラスの会場にはまだまだ猪木の集客力が必要だった事は間違いない。
2月の武道館でファイナルカウントダウン宣言をし、「猪木の試合を見れるのもあとわずか」と煽り、猪木の商品価値をさらに上げてきた事からも、まだ三銃士だけでは大会場を埋める事には不安があった事は確かだろう。まあ、実際その時代は案外早くやってくるのであるが、この1994年の時点ではまだドームは猪木なしでは物足りなかったのである。
そして6月には藤原喜明との防衛戦が行われるが、正式所属でない藤原が勝つ事はまずあり得ない試合だったので、結果は見え見えだった。しかし、それだけに藤原への声援は物凄く、試合中に橋本に対してかなりブーイングが飛んだのだが、その時の橋本の表情がかなり困惑していたように伺えた。要は、「自分がIWGP王者、つまりは新日本プロレスの顔であるのに、何故ファンは俺を支持してくれないのだろう」と言う事である。
6月の武道館では長州との王座戦であったが、こちらは武道館のメインであるにも関わらず、なんと11分弱で決着がつき、しかも最後はDDTではなくトップロープから長州の首筋あたりに落とすエルボードロップがフィニッシュだったはずである。今思えば長州のコンディションが余程悪かったのか、と言う予測がつくのであるが、当時はまだ裏側など知る由もなかったので、そんな技で終わるとは信じがたいものがあった。
そして8月のG1クライマックス。前年の反省を活かしたか、今回は両国5連戦となり、当然全ての日で公式戦が行われた。私は確か3日目ぐらいに行ったかと思うが、記憶にあるのはメインの長州VS武藤と、越中が馳にパワーボムで勝利し会場が爆発した事ぐらいである。で、カードを見返してみると、なんと橋本は当時まだパワー・ウォリアーだった健介と30分時間切れ引き分けを行っていたのだ。
越中と時間切れ引き分けを行ったのはテレビで見た記憶があるのであるが、自分が会場に行ったにも関わらず覚えていないというのは正直驚いた。まあ、当時の自分は大の武藤ファンだった事もあるのだろうが、蝶野とは対照的に「G1では勝てない橋本」と言うイメージがあったので、それも関係していたのかも知れない。