橋本真也について語る・その11 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

9月のG1スペシャルでは、前年が豪華すぎたせいもあるとは言え、カード的にはかなり見劣りするものとなった。テレビ中継は相変わらず当時はまだ恒例だった23日の横浜アリーナ大会のみであったのだが、この大会において橋本はパワー・ウォリアーと防衛戦を行っている。が、実際に観に行ったにも関わらず、正直サイトを見るまで全く記憶にない。すでに触れたよう、橋本はファンの支持を掴めきれていなかったし、健介に至っては言わずもがな。

 

と言う訳で、この大会もまだまだ猪木頼みであり、メインはなんとウィレム・ルスカとの約18年ぶりの再戦であった。これはおそらく以前触れているとは思うが、途中で猪木が失神?したところを長州がビンタで生き返らせ、最後は逆転で勝利するという、猪木ならではの試合であったため、非常に記憶に残る展開だったのだ。それもあって、他の試合が印象に残らなかったのかも知れないが、橋本はここでも猪木超えは果たせなかったのである。

 

4日後、今度は大阪城ホールで蝶野とタイトル戦を行う。正直、この時点で橋本VS蝶野は食傷気味であり、それは観客動員に直接響く格好となる。一応、蝶野が黒になってからは初シングルであったのだが、この時はまだNWO結成以前であり、蝶野自身もスタイルを色々模索していたかと思うので、ファン目線からしてもまだ蝶野の方向性と言うのが掴めていなかったのだ。そして、この大会も前年同様にノーテレビである。もちろん、闘魂Vで発売はされたものの、今の感覚からすれば大阪城でノーテレビなど考えられない。

 

そして年末には馳とIWGP戦を行う。こちらは毎年恒例となっていた大阪府立体育会館であったが、当然超満員でテレビ中継ありだった。この当時、馳と言うのは結構名勝負製造機的な感じで、誰とやってもそれなりの試合はしてくれるだろう、と言う安心感があったものだ。そして、当然この試合でも観客の声援を一身に浴び、29分もの激闘を繰り広げるものの、最後はフィッシャーマンDDTで決着がついた。

 

私の記憶にある限り、フィッシャーマンの体勢からそのまま落とした元祖は「フィッシャーマンバスター」と名付けられたライガーのはずである。なので、稀に繰り出していたこのフィッシャーマン式のDDTも、言わば他人の技である。プロレスファンと言うのは真面目な人間が多く、安易に他人の技を使うレスラーに好感は持てなかったので、この辺りも橋本が支持を集められなかった理由だったかも知れない。