3月にはノートンとの防衛戦が行われたが、これは正直ほとんど記憶にない。まだプロレスの全てを知っていた訳ではなかったとは言え、ベイダーと比べると新日本トップ外人としての器は落ちるノートンがベルトを巻くなど、この時はほとんどの人が考えてはいなかったはずである。
そして4月、広島での藤波との防衛戦が行われるが、この時は大部分の人が「今藤波なの?」と言う気持ちであったはずである。と言うのも、この時点ですでに興業は三銃士を中心に回っていたため、もしこれで藤波が取ったら逆戻りになってしまう訳であり、ファンからしてもそれはないんじゃないか、と思っていたからだ。
橋本自体もそんな空気にいら立っていたのか、この藤波戦などはかなり辛辣な攻撃が多かった記憶がある。当時、新日本のファンはこの手のカードが組まれた時、ほぼ100パーセント近く旧世代を応援していたものだったから、IWGPの王者でありながら橋本はかなりヒール寄りの立ち位置だった。それに加え、相手が当時ほとんどブーイングが飛ばない、新日本ファンにとっては究極のベビーフェイスであった藤波辰爾であったので、尚更ヒール色が強かった。
そして、蹴りまくられグロッキーになりながらも、一瞬にグラウンドコブラツイストを決めて勝利と言う、ここに来てまさかのIWGP王座移動に会場は沸き返ったが、なんとそれに納得の行かない橋本はスリーカウントを取られても藤波にストンピングを仕掛けるなどの暴挙を働く。当然、会場は大ブーイングに包まれるが、今思うと、IWGP王座でありながら観客の支持を得られない自分への苛立ちみたいなものもあったと思われる。
1ヵ月後にあっさりと再戦が組まれるが、この時確か橋本は「10分以内に決着をつける」みたいな事を言っていたかと思う。そして結果はその通りとなり、福岡ドームと言う大会場ながらわずか6分で決着がついた。前年の福岡ドームに比べて、この年は明らかにカード的にも弱かったので、ここらで一瞬でもタイトルを移動させて因縁を作っておこうか、とでも考えたのかどうかは知らないが、1ヵ月で明け渡せざるを得なかった藤波が正直気の毒だった。