橋本真也について語る・その7 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

新日本プロレスのサイトには歴代IWGP王座の記録があり、さらに防衛戦の内容と、ワールドに動画がある場合はリンク先も貼られていたので、改めて内容を見返してみると、なんと最初の防衛戦は初戴冠から3ヶ月後の武藤敬司戦だった。

 

3ヶ月も間が空くというのは意外であったが、確かに当時の新日本は10〜11月というのは大会場でのビッグマッチは記憶にない、そもそもこの時期は毎回ゴルフ中継で中止になっていたので、そういう意味からも意図的に大会場は避けられていたのかもしれない。

 

その最初の防衛戦となった武藤戦はテレビマッチだったので、久々に見返してみると当時の新日本としては異例とも言える28分超えの試合だった。まあ、新日本が異例というよりも、長州力が王座だった頃は20分超えの試合が皆無だっただけにそう感じるだけかも知れないが、長時間の試合と言えば四天王時代が幕開けした全日本のイメージが強かっただけに、これは意外だった。

 

そして、3日後の健介戦を挟み、1.4では蝶野正洋戦が行われた。前にも触れたが、この大会の目玉はもちろん猪木VS天龍だったものの、試合開始前のカード発表では前者がメインイベントと紹介されたので、一瞬観客がざわついたものである。そして、後者の試合は「特別試合」という事であったのだが、この理由は試合後に田中ケロ氏より「猪木戦はノーテレビ」とである事が明かされる。

 

つまり、猪木戦が放映されない以上、あくまでテレビ的には「橋本VS蝶野」がメインという扱いだった訳である。当時、プロレスは完全に活字なしでは追えない世界となっていたので、マニアであれば大人の事情などは分かりきっていたのであるが、それでもまだテレビが強かった時代だけあって、テレビだけしか見ないというファンも一定数いたものである。

 

という訳で、マニアには周知であっても、テレビ的にはやはりそうしなければならなかった面もあったのかも知れない。正直、当時の蝶野はまだヒールターン前であったので、すでに何度も行われている2人の試合は集客的には強いとは言えなかった。ただ、試合自体は良く、こちらも28分超えの激闘であり、「メインイベント」としても十分なものだった。

 

興味深いのは、この試合で橋本はのちの切り札である「垂直落下式DDT」を出しているのであるが、なんと蝶野がキックアウトしているのである。そうしたのはロード・スティーブンリーガルただ1人だと思っていたのであるが、実はそうではなかったのだ。という訳で、フィニッシャーは武藤戦と同様、ランニングしての飛びつきDDTだったのであるが、つまりこの時点では垂直式よりもこちらの方が技としては格上だったのである。それは私もすっかり忘れていた。