1986年当時、ファミコン雑誌としては最後発であった「ファミコン通信」が遂に創刊されると、当時の代表的なゲーム雑誌はほとんど出揃って行った。しかし、それでも小学生にはまだまだコロコロコミックの影響力は強く、まんまとその手の上に乗せられてしまいまたまたハドソンのソフトを買い続けてしまう事となっていった。
「スターソルジャー」直後のゲームとしては、「高橋名人の冒険島」と「迷宮組曲」などがあったのだが、いずれのゲームも極めて難しく、特に前者などはのちの「ゲームセンターCX」でも話題になったほどだった。ご存知ののように「ワンダーボーイ」の移植ではあるのだが、低年齢層向けのファミコンソフトとはしてはあまりにも理不尽すぎるほどの難易度だったと思う。
後者に関してはハドソンオリジナルながらそこそこ良く出来ていたとは思うが、非常に長丁場であるにも関わらずパスワードコンティニューが存在しないため、こちらもクリアは至難の業であったと思う。もっとも、こちらを有名にしたのはむしろゲーム本編とは全く関係ない、タイトル画面での連射測定かも知れない。当時、私は秒間15発ぐらいいけるかなと思っていたのであるが、平均して130ほど、最高でも140がギリギリだったのでこんなものか、と思ったものだ。
そして、秋頃に任天堂のスポーツゲームシリーズの1作として発売されたのがタイトルもズバリの「プロレス」である。この時点で、ファミコンのプロレスゲームと言えばかの「タッグチームプロレスリング」しか存在しなかった。かの「キン肉マン・マッスルタッグマッチ」がファミコンの初代プロレスゲームとされているのであるが、個人的にはその内容のお粗末さからその範疇には入れたくないものである。実際、当時も自分はそれがプロレスゲームの枠内とは思っていなかったし、あくまでファミコン初は前者だと思っていたので、という訳で私的にはこの時点ではその1作しかないという認識だった。
なので、この任天堂の「プロレス」は、ファンにとっては待望のファミコン第2作目となったのである。ゲーム性は連射命であり、連射装置を使えば誰でもクリア出来るようになってはいるのだが、それでも当時は大分熱中したものだ。当時はすでにプロレス人気は斜陽であったものの、まだ新日本・全日本のいずれもゴールデンタイム放送であり、今とは比較にならないほどプロレスの認知度は高かったものだ。
そして、1986年の年末商戦のラインナップもなかなか豪華であり、特に初代ファミスタこと「プロ野球ファミリースタジアム」が発売された年として永久に記録される。当時、私はまだ野球には無関心だったので実際にプレイしたのは大分後になってからの話なのだが、当時のプロ野球人気は現在とは比較にならないほど高く、また清原和博が1年目ながら驚異的な記録を残し、同時にパリーグへの注目度も一気に上がっていった時期でもあったので、ファミスタの発売はまさにタイムリーであったと言えよう。