ゲームの容量について語る・その1 | ONCE IN A LIFETIME

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フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

まだメディアがカートリッジ主流の頃、雑誌、特に徳間書店のゲーム雑誌では必ずゲームの容量が公表されていたものである。具体的にいつ頃からかは覚えてはいないものの、少なくとも1989年頃にはゲーム紹介の所に必ず容量も併記されていた。つまり、その頃はゲームの容量というのもそのゲームのボリュームを表すひとつの指標とされていたのである。

 

ただ、ファミコン初期の時代はあまりにも容量が少なかったので、それに関する資料はほぼ皆無だった。なので、初期のドンキーコングや初代マリオブラザーズがどの程度の容量だったのかは全く知らない。もちろん今ではググれば出てくるかも知れないが、少なくとも当時はもちろん、ネット以前の時代はほぼ不明だった。それほどゲームの容量など誰も気にしていなかったのである。

 

それが初めてフォーカスされたのは、ディスクシステムの発売時だ。セーブと並び、「ROMの3倍の容量」と言うのがディスクの売りであったのだが、そのディスクの容量はわずか1Mビットである。つまり、その当時のROMの容量はそのたった3分の1しかなかったという訳だ。まあ元が小さいと言えばそれまでだったのだが、まあとにかく「ディスクは大容量」というのが売り文句だったのだ。

 

しかし、それからわずか数ヶ月でその売りはあっというまに失われた。確かファミコン初の1MビットROMは、カプコンの「魔界村」であったかと思う。2Mのソフトもあっさりと発売され、こちらも同年のコナミ「がんばれゴエモン」だった。後者はROMの自社生産を行えていたため、それも有利に働いたと思うのだが、ほぼ同時期の「ドラゴンクエスト」や「スターソルジャー」が1Mビットにも及ばない容量でいたなか、すでに2Mビットのソフトは存在していたのは驚きである。イコールディスクの容量を軽く倍増してしまっていた。

 

私は「がんばれゴエモン」シリーズは一度も買った事はないのであるが、当然その大容量を大々的に宣伝していた。その辺りから、容量もゲームの売りのひとつとなっていったのである。しかし、任天堂生産のROMはなかなか2M超えはならなかった。しばらく任天堂はディスクに注力していた事もあったが、翌年の「ドラゴンクエストII」ですら1Mビットである。ただ、それでもゲームのボリューム自体は前作の2倍以上の感覚だったから大したものだ。

 

そして、1987年秋に発表された「ドラゴンクエストIII」で2Mビットとバッテリーバックアップが搭載された。当然、大きくフォーカスされたものの、実際に発売されたのは「ウィザードリィ」や、そして「ファイナルファンタジー」の方が先であったため、別にこの組み合わせがドラクエ初という訳ではなかった。また、ファミコン初のバッテリーバックアップは、「ファミリーベーシック」の乾電池を除けば、セタの「森田将棋」が初である。任天堂ROMではおそらく「ウルティマ」であっただろうか。しかし、当然知名度の影響から、「リセットボタンを押しながら電源を切る」のを定着させたのはもちろんドラクエIIIである。