初代プレイステーションを愛す・その3 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

初夏を過ぎて以降、家庭用ゲーム雑誌を読むのをしばらくやめてしまったので、それ以降どのようにしてPSが紹介されていったのかは分からない。しかし、当時行きつけのゲーム屋に行った時にプロモーションビデオを貰う事が出来たので、それである程度のラインナップは知る事が出来た。

 

当然、リッジレーサーが最もプッシュされていたのは言うまでもないが、同時にアーケード版とほとんどクオリティが変わらない「極上パロディウス」の完成度にも目を丸くしたものである。そのビデオパッケージにはPSのスペックも記載されていたのであるが、インパクトがあったと言えば1677万2618色発色、最高36万ポリゴン、そしてスプライト4000個である。

 

3Dに特化したハードであるPSは、性格にはスプライト機能は積んでない、とか言われるが、当時の家庭用の最高がSFCの128個、ネオジオですら380個だったのに対し、いきなり4000個というのは空前絶後だった。今のユーザーからは信じられないかも知れないが、当時のハードはスプライト、いわゆる動くキャラクターの表示制限があるのが当たり前であり、それがファミコンなどで見られるチラつきを発生させていたのだ。

 

つまり、4000という数字はほぼ無限に等しい感覚であり、家庭用では当たり前とされていたスプライト欠けがここで事実上なくなったのだ。これは当時の感覚で言えばとんでもない事だった。まあ、フレームバッファ方式を使用しているセガサターンに関しては制限なしであり、性能自体もさらに強力なのではあるが、とにかく32ビット機からスプライトのちらつきは解決した訳である。

 

そして、発売1ヶ月前にもなるとソフトの価格も発表されたが、なんとほぼ5800円という、こちらも当時としては価格破壊に等しいものだった。というのも、それまではROMの高騰もあり、旧光栄のゲームでなくとも10000円超えは当たり前となっていたからである。例えば24Mビットを使用したFFVIは11400円だったし、32MビットのスーパーストリートファイターIIも10900円というものだった。

 

今ですら10000円超えのソフトなど滅多にないのに、東京都の最低時給がまだ600円台だった時の10000円である。今なら単純に15000円台ぐらいの価値であったので、いかにトンデモ価格だったかがお分かりいただけるだろうか。しかし、それでも当時はそれが常識だった。それに倣い、SSのローンチであるバーチャファイターも8800円という高額で発売された。

 

それがいきなり5800円である。言うまでもなく、CDの原価はROMのそれとは比較にならないぐらい安いので、この低価格もそれが要因である。本体は39800円とそこそこ高額であったが、それでもSSの44800円よりかは安かった。豪華なローンチもあり、言うまでもなくPSは発売と同時に大ヒットを記録していったのだ。