かつてのプロレスファンが、本当に闘ったら誰が一番強いのか?で延々と議論が出来たのと同じく、野球ファンにとって常に語られる対象となるのが「投手の球速」である。今は全試合映像に収められ、そしてスピードガンの性能も出た当初と比べれば明らかに精度が高まっている訳であり、現代の投手について議論される事は少なくなっているとは思われるのだが、それでも球速の議論は最も野球ファンを熱くさせるテーマのひとつである。という訳で、ここでは私が知る限りの経験談を語っていこうと思う。
まず、Wikipediaによると野球中継においてスピードガンが導入されたのは1979年との事である。しかし、地上波のみの時代の全国中継と言えば一般的にはイコール巨人戦であり、パリーグの試合が全国放送される機会はオールスターや日本シリーズしかなかった。一応、フジテレビのプロ野球ニュースでは全試合映像付きの解説を売りにしていたので、その放送開始以降はパリーグの試合も収録はされているはずなのであるが、当然ニュース用の素材なのでスピードガン表示などあるはずもない。
という訳で、少なくとも1980年代前半ぐらいまでは、当時の選手や審判員の証言ぐらいしかソースがないのが実情であり、後世の世代はそれらの受け売りで語る以外はないのである。しかし、1980年代後半ぐらいから西武ライオンズの躍進などでパリーグの露出も増え始め、次第に彼らにもスポットライトが当たるようになっていったのであるが、それ以上に子供たちにとってはより身近な存在が生まれていった。そう、言うまでもなく事実上ファミスタを元祖とする個人データが収録された野球ゲームの存在である。
当時、リアルで150Kmを超える投手というのは極めて稀だったのであるが、その中で元祖ファミスタにおいて150Km超えを記録していたのはLチームのかくと、Cチームのつだぐらいであったかと思う。そして、翌年ファミスタの対抗馬として発売された「燃えろ!!プロ野球」においても、現役では郭泰源の158Km、続いて槙原寛己の155Km、津田恒実の152Kmとかであったかと思う。なので、当時の野球少年における認識では、郭泰源が最速、というのが共通のイメージだった。
なので、貴重な郭泰源の中継などは楽しみで見ていたものだったが、私が見た最高は148Kmだった。それでも十分速いが、ゲームのイメージを持っていた私は「随分と差がないか?」とそれは不思議に思ったものである。実際、郭泰源が一番速かったのはLA五輪の時であり、実際に158Kmを記録はしたと言う。翌年西武に入団した際にも、156Kmを記録したらしいし、YouTubeで見られるオープン戦でも153Kmを記録はしている。しかし、球速だけでは通用しないと悟ったのかどうかは不明だが、入団3年目の時点ではすでに速球は捨てており、技巧派のイメージが強かったのだ。
槙原寛己は実際に入団当時は155Kmを記録していたが、ゲーム発売時点では先発という事もあってか146Km前後だった。しかし、後年抑えに入った時は151Km前後を記録していたし、やはり潜在的な能力は高かったのだろう。そして、私が初めてテレビ中継において150Km超えを見たのが、オールスターにおいての津田恒実である。こちらはYouTubeで見る事が出来るので、そちらを見てくれた方が早いだろう。
今なら別に珍しくもないが、前述のように当時で150Km超えというのは極めて稀だったのだ。津田が速いというのは当時から有名ではあったし、また巨人戦でもよく登板はしていたのであるが、後楽園やドームで150Km以上というのは見た事はなかったので、この時が初めてだった。場所はナゴヤ球場だったが、なんとなく他よりもスピード表示が高かったイメージがあるので、もしかしたらそれもあったのかも知れない。
そして、初代燃えプロはOBチームが収録されており、その中で金田と江夏が共に158Kmに設定されていた。実際に球速議論では必ず上がってくる2人であり、特に1950年代の打者はかの川上哲治氏をはじめとして異口同音に「若い時の金田が一番速かった」と語っている。江夏の場合は、実際は山口高志の方が速いという意見も多いのだが、それでも晩年のリリーフ時でさえ146Km出していた事から、若い時は軽く150は投げていたと思われる。という訳で、当時を知らない子供たちですらも、この2人は速い、という印象を植え付けられていたのだ。
因みに、堀内恒夫は134に設定されていた。どう考えてもありえない数値であるが、引退から間もない事もあり、晩年のイメージだけで設定されてしまったのだろう。イコール、堀内は遅いというイメージを子供達は抱いてしまったので、後で速球派だと知って驚いたものだった。
そして1990年代、新たなスピードガンの申し子的な存在が誕生する。言うまでもなく、当時ロッテの伊良部秀輝である。1989年に155Kmを記録し、1993年には有名な清原との対決で158Kmを記録した。もちろん大騒ぎになったのは言うまでもなく、これが引き金となったか翌年以降のオールスターでは常にファン投票1位で選出されていった。そしてその1994年のオールスター、第1戦に先発した伊良部は、松井秀喜の打席で159Kmを記録した。実際、球場のスピードガンでは156Kmだったらしいので、あくまでテレビの中継上のみの数値ではあったのだが、160Km間近の速さには度肝を抜かれたものだった。おそらく、これが1990年代の最速の表示であったかと思う。
これが私の記憶にある限りの球速エピソードである。次回は、もっと遡って伝説的な選手について語っていこうと思う。