プロレスの歴代実況アナウンサーは数多いが、やはり今でも歴代最高と謳われるのは古舘伊知郎以外にはないだろう。仕事で振られただけのアナウンサーも多い中、古舘氏は少年時代から筋金のプロレスファンであり、彼のプロレス愛、そして猪木愛はまごう事なき本物である。数々の名実況、そしてレスラーに振られた名フレーズなどは、今なお我々の心を震わせる。
特に後者は秀逸であり、プロレスの歴史の中でもアナウンサーが名付けたニックネームなどはあまり定着しないものだ。しかし、古舘氏の名付けた異名というのは見事な事この上なく、アンドレの「ひとり民族大移動」、「1人というには巨大すぎる、2人というには人口の辻褄が合わない!」、ブロディへの「マンハッタン・ターザン」、「インテリジェンス・モンスター」、デイビーボーイ・スミスの「筋肉の終着駅」などは今なお語り継がれている名フレーズである。
それは日本人レスラーへも例外ではなく、前田日明の「黒髪のロベスピエール」、高田延彦への「青春のエスペランサ」、「わがままな膝小僧」などはまさにレスラーの個性を表している秀逸なニックネームだ。さすがに藤原喜明への「顔面達磨大使」などは少し言い過ぎな感もしなくはないが、この辺りのセンスというのは本当にハズレがなかった。のち、TBSの猪木祭りや、Dynamite!などで復帰した時は少々無理をした感が否めなかったので、やはり古舘伊知郎の全盛期は新日本時代にとどめを刺す。
そんな古舘伊知郎の真骨頂は、やはり1988.8.8の実況だろう。これはググればすぐに出てくるのでそちらを見ていただければ、と思うが、まあとにかく感動する事請け合いである。冒頭のベルトに対する例えや、中盤のプロレス技で単語を覚えたくだりなどは、私も少年時代そうだった事を思い浮かべて思わず目頭が熱くなるものである。
今でもYouTubeで熱くプロレスを語っているよう、やはり古舘伊知郎と言えば報道ステーションではなく、本籍はプロレスだなと実感するのであるが、個人的にはそんな氏とは別に、最も印象に残っている実況が他にあった。それは、1994年の4月16日、全日本プロレスの川田利明VSスティーブ・ウイリアムス戦における若林健治氏の実況である。
この4月から、全日本プロレスは日曜深夜の2時35分という信じられない時間に追いやられ、しかも30分に縮小と、番組としては完全に窮地に追いやられた感じとなった。元々プロレスファンというのは録画率が高いので、時間帯はあまり問題はなかったかも知れないが、さすがに武道館のメインでは30分越えが珍しく無くなった全日本を考えると、30分、実質20分程度の中継というのはあまりにも短いものであった。
苦肉の策として、30分越えの試合はなんと1試合を2週に分けて放送という手段がとられた。それはないだろう、という事で、確か翌年以降からは武道館のみ拡大バージョンで放送、時間帯も深夜1時前ぐらいに繰り上げられたかと思う。新日本は土曜日だった代わりに、従来の1時半から2時台に追いやられた事も多かったので、個人的には全日本の方が見やすい感覚だった。
まあ翌年以降はさておき、この1994年4月の実況である。この頃は前年開幕したJリーグがまだ人気を保っており、マスコミもプロ野球は時代遅れであり、これからはサッカーだ、という風潮だった。長らく野球ファン、かつ天邪鬼であった私としてはこれが非常に気に食わず、世の中に反発しまくっていた訳であるが、元々反骨精神の強いプロレスファン、それは若林氏も同様だったようである。
それを意識してか、「プロレスのサポーターは、野球やJリーグより、熱い、優しい!」と試合の後半叫んだ。サポーター、と言う言い方は、日本ではJリーグの発足後に一般化したので、もちろんそれを意識してのものであろう。そして、何より私の琴線に触れたのは「優しい」である。これは前年に出版された、氏神一番氏による「心はいつもプロレスラー」の冒頭で氏も触れていたのであるが、プロレスファンというのは基本的に気が弱く、優しい人が多い、との事である。
それはほぼ間違いない傾向であり、これまで出会った人の中からでも非常識人というのはまずいない。ほとんどが普通の人たちばかりであり、おおよそ犯罪などは起こせそうにない人ばかりである。そんな人たちばかりだから、会場におけるマナーもすこぶる良い。中にはうざいファンも居なくはないが、大体はマナーに沿って観戦してくれている人たちばかりである。そして、もしファンたちが問題を起こせば、それはプロレス界全体のイメージダウンになるという事も十分理解しているので、その辺りの配慮もプロレスファンならではの優しさと言えるだろう。
以上のように、「熱い」というのは当然の事であるが、その後に「優しい」と続いたのが私的に非常に心に残り、今だに見返してしまうほどである。この直後に、大問題となった「戻せ1時間枠!」発言により、若林氏は速攻で全日本の担当から外され、そればかりかラジオ日本へ出向というペナルティを与えられてしまうのであるが、やはり氏の消えた全日本の中継は物足りない事この上なかった。
まあ、後に担当になった平川健太郎アナも筋金入りのプロレスファンだっただけあり、実況の熱は下がる事はなく、当の若林氏もファンの懇願により3年後に復帰を果たす事になったのであるが、中継が打ち切られ、ノアに移行してからは2度と日テレの実況に戻ってくる事はなかった。しかし、それならばと大企業であるはずの日テレを退社してまで、プロレス実況の道を模索していったのだから、やはり彼のプロレスに対する想いは本物であったというものだ。