ミル・マスカラスについて語る。 | ONCE IN A LIFETIME

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フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

昭和プロレスファン御用達のG-Spiritsというムックがある。初期の頃は立ち読みしていたのだが、次第にネタがマニアックかつネットで十分となると、本屋自体滅多に行かなくなった事もあってここ数年はほとんど目を通してはいなかったのであるが、最新号はミル・マスカラスの大特集との事であり、Amazonのレビューを見て興味が湧いたのでこの度初めて購入した。

 

 

ドクトル・ルチャこと清水勉氏は、私が週刊ゴングを愛読していた頃の編集長でもあった訳だが、そのあまりの知識の深さには毎度の事ながら圧倒されるものだ。毎回、ルチャドールに対してのインタビューも自身で行なっており、当然今回のマスカラスへのインタビューもそうなのであるが、その話っぷりから「やはりスペイン語を話せるのでは?」と思っていたらやはり案の定であった。

 

まあ、さすがに現地で直接取材を行えるレベルでないと、到底あの知識はつかないだろうからそれも当然なのかも知れないが、今よりも遥かに情報が少なく、当然ネットもスマホも存在しない40年以上前からスペイン語を独学で勉強し、通訳なしでインタビューを行っていたというその情熱には感服するばかりである。

 

さて、こんな事を書いている私も、当然の事ながらマスカラスに魅了されたうちのひとつである。しかし、日本でマスカラスの人気が全盛だったのは、1970年代後半までであり、当然リアルタイムでは知らない。なので、初めて私がマスカラスの存在を知ったのは、プロレスファンになった翌日に購入した、竹内宏介氏の「プロレス激闘全百科」においてである。最初は、その見た事もない逆三角形の肉体に単純に凄いと思い、そして普通にそのマスク自体もかっこいいと思ったものだ。しかし、すでにピークが過ぎたマスカラスの来日は途絶えており、動く姿をみる事はしばらくは叶わなかった。

 

当時、テレ東で放映されていた世界のプロレスの中で、たまにルチャの試合も放映されたりもしていたのであるが、そこでマスカラスの試合が放映された事は皆無であったかと思う。まあ、その流れでルチャ・リブレ自体にも興味が湧き、当時の新日本や全日本よりもそちらの方に遥かに関心が向いた私は、子供ながらにメキシコに行ってみたいと本気で思ったものである。そして、その年の10月に、久々にマスカラスが全日本に来日、ようやくその姿をテレビで見る事が出来た。

 

しかし、すでに初代タイガーは消えていたとは言え、それでもジュニアヘビー級の空中殺法がマスカラス全盛時よりも遥かに高度になっていた時代である。期待とは裏腹に、マスカラスの試合自体に惹かれる要素は全くなかった。そこで急激に熱が冷めてしまい、またその頃から両団体も日本人対決が主流になっていった事もあり、プロレス自体への熱まで冷めてしまった。

 

まあ、この3年後にゴールデンから外されてしまった事からもわかるように、私だけでなく、世間的にもプロレス熱が冷めて行った時期でもあった。よって、全日本などは元横綱の輪島を招聘したりもして、どうにかしてゴールデンタイムを維持していたという感じでもあったのだが、まあ今思えば一番の要員はやはり馬場・猪木に次ぐスーパースターが出てこなかったという事に尽きるだろう。私が見始めた頃は、すでに馬場は一線を退き、鶴田・天龍にメインを譲っていたが、何も知らない子供にとって、鶴田よりもやはり馬場が出てきた方が嬉しかったものである。それが世間を超えたスーパースターと、プロレス枠内のスターとの違いだろう。もちろん、鶴田、藤波、長州などは世間的にも知名度は高かったのであるが、やはり馬場・猪木に比べてしまうと大衆に訴えかける魅力が圧倒的に及ばなかった。もちろん、後者はかのONとも並び称されるほどの昭和のスーパーヒーローだったのだから、もうどうしようもないと言えばそれまでなのだが。

 

そして、1986年頃を最後に、マスカラスの来日は完全に途絶えてしまう。それから5年後、かのWINGプロモーションの旗揚げ戦に、代表の茨城氏がマスカラスを招聘することを画策し、久々の来日を果たした。これに関しては本人がYouTubeで語っているので、興味のある人は見てみればいいだろう。当然、会場は大盛り上がりであるが、おそらく大半の人たちは少年時代に熱狂していた人たちと思うと胸熱である。その後も、同WINGや、WARなど、1990年代にも何度か来日を果たしていたのだが、当時はすでにルチャには興味はなくしていたので、実際に会場で見ることは一度も出来なかった。

 

 

さて、マスカラスと言えば日本の空中殺法の先駆者であるのは間違いないが、正直それに関して驚いた事は一度もなかった。しかし、よく考えたらそれは当たり前の話である。アントニオ猪木の「落日の闘魂」のよう、マスカラスも「飛べなくなったマスカラス」などと揶揄されるが、全日本の全盛期ですらもすでに40近かった。私が初めてテレビで見た時などは43である。今年39歳となる飯伏幸太でさえも、フィニッシャーをほぼカミゴエのみにしているほどであるから、加齢と共に飛べなくなるのは仕方のない事である。

 

そして、何よりも凄いのは、「マスクしている=当然素顔がわからない」にも関わらず、他のマスクマンとは圧倒的に異なる魅力を発している事である。現在のデザインに統一されるまでは、本当に「千の顔を持つ男」の通り、試合ごとにマスクを変えていた。普通、マスクマンの掟で言えば別のマスクマンとなってもおかしくないものであるが、マスカラスに関してはそれが許され、そして別の柄をつけていてもマスカラス以外の何者でもないのだ。もちろん、それは当時から持つ圧倒的な肉体の凄さ、というのもあるのは間違いないのであるが、やはりその辺りの圧倒的なカリスマ性がマスカラスのマスカラスたる所以である。

 

この本には、同時に弟ドス・カラスのインタビューも掲載されているが、単純に跳躍力ともなればドスの方が優れているように見える。実際、頭から突っ込む正調トペ・スイシーダのフォームとスピードは見事であり、それだけを見ても分かる。映像で確認出来るマスカラスのトペ・スイシーダは、かの有名なハーリー・レイスとのNWA戦ぐらいであり、しかも斜めに突っ込む中途半端な形であった。

 

この試合は、当時日テレが深夜に放映していたプロレスリクエスト的な番組でも放映されたのであるが、当時子供だった私にとっては大層がっかりしたものだ。しかし、それでもやはりプロレスラーとしての価値、スター性はまるでドスは及ばないのである。これが単純に残した数字が良ければ評価される、プロ野球など他のプロスポーツとは異なるプロレスならではの魅力であるかと思う。単純に技の良し悪しだけでは計り知れない、一流プロレスラーだけが持つ圧倒的な華、それがまさに一般的な価値観だけでは量り知る事の出来ないプロレスならではのものである。

 

まあ、数字的な面で言えば観客動員力というもので表されるのであるが、それがマスカラスの場合は圧倒的だったと言う事である。馬場さん自体はあまり試合内容自体は評価していなかったとされるが、前述の通り動員力が絶大なために呼び続けたという話である。まあ、だからこそそれが落ちた途端に呼ばれなくなった、という事でもあるのだが。

 

今でもマスカラスの動画はしょっちゅう検索するが、ルチャ・リブレは1990年代前半までテレビ放映が禁止されていたため、エル・サントなどと同様に全盛期の姿をほとんど見る事が出来ないのが残念である。ルチャドールの試合に関しては、昨年のファンタスティカ・マニアの後楽園ホール大会でようやく念願が叶ったのであるが、本場のメキシコ、アレナ・メヒコにおいては当然まだである。メキシコまでの旅程となると早々気軽にはとは行かないが、いつかは実現したい子供の頃からの夢である。