木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか | ONCE IN A LIFETIME

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フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

当然とはいえ、完全に木村政彦寄りであるこの本は、プロレスファン的には不快な記述も多いとはいえ、それでも少しでも格闘技に関心を抱いた人間であれば一気に読破してしまう事は間違いない名著である。

 

個人的には冒頭の馬場と2人のやりとりでいきなり心をわしづかみにされたものだが、個人的には岩釣氏を本当にリングに上げてセメントを仕掛けてもらいたかったと思った。もしそんな事をしたら、馬場さんの言うとおりに「本当に」ただではリングの上から降ろさなかったであろう。時期的に言えば、一説によると「猪木潰し」ともされたオープン選手権並が行われた翌年あたりの事となるので、もしその大会に出場した並のメンツを集められたとしたら、と思うとワクワクしてたまらないのだ。詳細はWikipediaでも見ていただければ分かると思うが、外国人選手の顔ぶれが本当にヤバい連中ばかりであり、こんな連中にリングを取り囲まれたら五体満足では帰れないだろう。

 

日本のリング上においては、かのジャッキー佐藤VS神取忍のセメントマッチ以外にはあからさまなガチの制裁マッチと言うのは頭に浮かばないので、そういう意味では本当に見てみたかったものである。

 

そのくだり以降、力道山の登場までプロレスは語られる事はないが、いくらプロレス側の人間ではないとはいえ、やはりその信じがたいまでの逸話は男としては憧れざるを得ないものがある。もっとも有名なものとしては、「1000回以上が腕立て伏せだ」とあるが、1000回連続か否かは不明なものの、そうでなくとも1日で1000回と言うのはかなり大変である。私も今でも200回ぐらいまでなら割と軽く出来るほうだが、さすがに300回以上となるといきなり辛くなるし、それ以上やる意味もないと思い大体そこでやめてしまう。

 

ただ、格闘技やトレーニングの心得のある人間ならともかく、そうでない一般人など50回も最初はきついであろう。特に、一時期は草食系などと言う言葉がはやったぐらい弱々しい男が当たり前となっていた昨今なら余計そうである。今はそれでもいいのかもしれないが、私の世代ではやはりまだ男は強くなくてはならない、別にお金になる訳ではないとは分かっていても、男なら筋肉がなくてはダメだ、と言うのが当然だった。そういう意味でも、この本は当時の熱い思いを思い起こさせてくれる本なのである。

 

力道山との一戦は、急所蹴りが決まった直後からあかさらまに力道山の様子が一変しているので、力道山の一方的なブック破りである事は間違いないだろう。これは生前、木村政彦が語っていた事ではあるものの、その後力道山が全盛を迎え、テレビ局としてもドル箱となり、そしてもちろん黒社会との繋がりもあった訳だから、ほぼこの発言は闇に葬られる事になった。一応、90年代ぐらいになるとこの発言にも触れたプロレス雑誌もあり、おおよそファンには常識として知られる事となったのだが、だからと言って力道山が戦後の偉大なるスーパースターであった事実に変わりはないので、特に騒ぎになる事もなかった。

 

また、この著者によれば、「最初からセメントであれば木村が勝っていた」と言う流れにどうしても持っていきたかったようだが、識者に悉く論破されていたのもプロレスファン寄りには正直気分が良かったものだ。まあ発言を聞く限りでは、木村はプロレスをなめ腐り、こんなものか、と言うものだったのだろう。対して、力道山はプロレスに賭けていたのだから、覚悟が違う。リングの上ではプロレスをしていても、いざとなったら懐刀を出す、そんなプロレスラーの凄みを力道山はこの試合をもって見せつけてくれたのだ。

 

結局、木村はプロ活動をした事により、講道館の柔道殿堂にも入る事が出来ず、一般的には長らく力道山の初代パートナー、かつ敗北した人、と言うイメージに終始した。彼の著書などにはほとんど目を通してはいなかったとは言え、とにかくそれだけの印象が強く、柔道日本一と言う事は分かっていても、果たしてそれがどの程度のものなのかほとんど伝わる事はなかったかと思う。

 

それが一変し始めたのは、やはり第1回UFCによりグレイシー柔術が名声を広め、その一族の親であるエリオ・グレイシーが若かりし頃木村と闘い、敗北した、と言う事が公になってからだと思われる。何故昭和20年代に、日本の真裏のブラジルに木村が居たのかもその時点では謎だったのだが、まるでグレイシーに太刀打ち出来ない日本の格闘技界において、かつて一人だけ一族に勝利、しかもそれがかの木村政彦だと知られると、それはそれはその評価は一変、力道山にKOされた男から、一気に「日本人で唯一グレイシーに勝利した男」と言う称号が与えられたのである。

 

しかし、無念な事に木村政彦本人は、その年の4月にその生涯を終えていた。あともう少し長生きしていたら、格闘技関係者とそのファンたちに、どれほどの敬意を改めて向けられていたのか、と思うと残念極まりない。