人間としての誇り | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

あいにくの延期となってしまったが、日本人が最も日本人になる、と言う瞬間はオリンピックの時であるという。それはまさにそうであり、普段全くそのアスリートにも、そしてもちろん競技自体にもまるで関心がないはずなのに、五輪の期間だけはまるで誰もが身内であるかのように必死で応援する。近年であれば90年代以降のワールドカップなどもそうであろう。

 

ただ、当然日本人として生まれた以上、死ぬまで日本民族としてしか生きることが出来ないが故に、これも日本人特有の現象と思いがちになってしまうのであるが、別にそうではなく海外でも同じである。例えば、元WWEのスーパースターであるカート・アングルの自伝によれば、アメリカでもレスリングと言えばプロレスであり、アマチュアレスリングは普段全く見向きもされもしないスポーツだと言う。

 

そのままでは金にならず注目も浴びないが故に、プロとしてのレスリングが今のような形になったのでそれは当然な話でもあるのだが、やはりアマチュアレスラーによると「こんなにしんどい思いをしているのに、プロレスばかりが注目を浴びるのはおかしい」と言う思考に陥るのが必然らしく、よってほとんどのアスリートたちはプロレスを敵視するようになるという。カートもそのうちのひとりであったが、さすがにアトランタ五輪で金メダルを獲得した時は、自国開催と言う事もあり地元メディアから大変な賞賛を浴び、当時の大統領であったクリントンに声をかけられた時は、「なんてことだ。大統領がボクの名前を知っている」といたく感動したという。

 

しかし、そんな熱狂も1ヵ月もすれば収まっていき、メダリストの威光だけでは金にならなくなっていったカートは、まあありがちなスポーツキャスターに転身するものの、それまでの周りの反応が180度変わり、「またうざいレポーターがひとり増えやがった」と言う感じだったという。そんな生活に嫌気がさしたカートは、一度はオファーを断り、絶対に関わる事はないと誓ったWWEのRAWに遂にチャンネルを合わせ、ようやくその素晴らしさに気付き、自らコンタクトを取り…その後の大活躍は言うまでもなく、さらに当然ながらレポーター時代とは打って変り、アスリートたちの反応もさらにまた180度変わったようである。

 

社会的に見れば金メダリストの方が遥かに価値が高いのに、「金メダリスト」ではなく「WWEのスーパースター」としての方が遥かに周りの反響が凄まじいというのはファンにとっては痛快な事この上ない話であるが、もちろん、皆が皆カートのように転身に成功する訳でもなく、レポーターとしてテレビに出れる事自体すら稀である。よって、このように五輪とその1か月後だけ注目を浴びるのは日本だけではない、各国、特にメダルの量産国であればどこもこんなものである。

 

私自身もかつてはそんな典型的な日本人であったのだが、だんだん自己のアイデンティティが完成に?近づくにつれ、次第にそういう傾向が嫌になり、さらには時差の関係もあったせいか五輪自体ほとんど見なくなってしまった。最後に記憶にあるのは、バンクーバーでの浅田真央とキムヨナのライバル対決ぐらいである。

 

多少前振りが長くなってしまったが、一応ここからが本題である。そんな自分であっても、「日本人である事に強烈な意識、そして誇りを忘れてはならない」と誓う瞬間が年に1度は確実にある。それはもちろん、海外に居る時である。

 

「情報が分からないもの、未知のもの」に対して、人間と言うのは得てして第一印象でその全てを決めてしまう傾向がある。例えば、スペースインベーダーが出た当時は大人たちは誰もゲームに対して理解出来なかった。次第に、少年たちがカツアゲなどの犯罪行為を起こすようになると、すぐに国会でも取り上げられるなど社会問題に発生し、「ゲームは悪」と言うレッテルを張られ、少なくともそのイメージを回復するまでに10年以上の月日を要した。

 

それは人間同士であっても当てはまる。中国人によるトラブルは世界中のどこであっても発生しており、モラルが低い輩が多いのは事実である。しかし、実際に大陸に行けば分かるが、中国人全員が全員そうではないのが分かるし、日本人と知ったからってすぐに殴り掛かってこられる訳でもない。しかし、当然メディアは視聴率やアクセスを稼ぎたいがために、彼らの悪行を徹底的に取り上げる。そうなると、実際の日常を目の当たりにしたことのない大多数の日本人は、「中国人=悪」と言う思考を自然に刷り込まれてしまうものだ。

 

ただし、今でこそ国際的なイメージは良い方である我々日本人であっても、海外旅行が一般化した当時は欧米では厄介者扱いされたのも事実であり、もっと遡って東京五輪以前ともなれば、そこらにゴミやタバコの吸い殻が溢れるという、いわば途上国レベルであったのだ。それが今のようになったのは、その後の先人たちによる努力の結果である。

 

そんな先人たちの努力を絶対に無駄にしてはならないし、そして何より日本人としての誇りを絶対に貶めてはならない、と海外に居る間は常に心にとどめている。正直、いくら自分がそのように振るまっていても、本当に微々たるものにしかならないし、またそんな誇りも微塵もない日本人も必ずいる。そんな連中がひとたびトラブルを起こせば、私の努力なんて水の泡である。しかし、自分は世界最強レベルの赤いパスポートを所有出来ている事に大変な誇りを感じているし、それはもちろんこの日本に日本人として生まれる事が出来た証明である。それを考えたら、やはり自分だけでもそんな日本人としての誇りを汚す事は出来ないのである。

 

それが故に、外国人労働者の気持ちが理解出来ない事もしょっちゅうだ。日本に来る出稼ぎ労働者たちとその家族は、総じて周辺途上国からの連中が多いものであるが、欧米至上主義の日本人にとって、基本的にその国々対する情報はほぼ皆無に等しいのである。そんな状態で、最初に雇った連中がどうしようもなくモラルが低かったらどうなるか。当然、その国のイメージまで悪くなりがちだし、二度と同胞は雇わない、と雇用主は決断するだろう。そんな結果は目に見えているのに、何故彼ら彼女らの行動は改善されないのか、またしようともしないのか、それもまた不思議で仕方がないのだ。

 

また、同じ日本人同士であっても、非常識な振る舞いを行えば周りから「親の顔が見たい」と白眼視される。「言ってはいけない」によると、子供の性格や振る舞いに、躾や環境の影響はせいぜい30パーセントであり、残りは遺伝と言う事であるが、それでも世間一般的には遺伝の要素はおおよそ無視され、子供の態度やモラルがないのはおおよそ「親のせい」とされる。まあ、遺伝に関しても親の影響であるし、どっちにしても親の影響である事には変わりはないのであるが。

 

何が言いたいかと言うと、自分のせいで日本が貶められるのは許容出来ないのと同じく、自分のせいで親がバカにされるのは我慢がならないからである。いくら年を重ねても、人間生きている限りは周りからそういう目で見られるものだ。よって、自分が常にそういう意識で動いているからこそ、親まで非難されるような輩の心理を自分はとても理解出来ないのである。

 

そういう時は、もう自己暗示をかけて諦めるしかないのである。最近で言えば、「アインシュタインの伝記を英語で読んでいる自分が、そんなモラルも教養もないバカの心理を理解出来る訳がない」、こんな感じだ。