ジレンマ | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

今はどうか知らないが、私が見た数年前のロンリープラネットJAPAN版の言語ページには、「日本では英語が通用しづらいが、学校の勉強により読み書きはそれなりに出来るので、万が一のために常にペンと紙を用意しておき、また出来るだけ学生さらに若い女性に話しかけてみる事」のように、ある種の国辱的な文章が掲載されていたが、まあこれらの事実から分かるよう、日本人だけでなく外国人も日本人は英語が話せない事を知っている。

 

私自身もそのような例は数多く、未だに記憶に残っているのが、ひとりの香港人の友人が彼女の友人を紹介してくれた時、その子が「どうしよう私日本語話せない」ともう一人の子に英語で話しかけていた時だ。その時は、元々の友人が「大丈夫、彼の英語は凄く上手だから」と言ってくれたので事なきを得たが、それ以外でも「日本人である」と言うたった一つの理由だけで、英語が話せないと思われているだろうな、と感じた事は星の数。

 

まあそう言う訳で、逆に言えばそれだけ今でも英語能力と言うのは日本では特殊スキルに値する事、よって英語をそれなりに扱えるようになればかなりドヤ顔、偉そうに出来るのだろうな、と一般的な日本人の方々はそう思っているのかも知れないが、他の人たちはともかく少なくとも自分は違う。TOEICのスコアこそ、未だに830点が最高ではあるけども、一応日常的英会話はもちろんの事、それよりももう少し高度な会話も可能ではあるし、もちろん英語のニュースも完璧ではないもの、文章のレベルによっては日本語を読むのに近い感覚で読む事ぐらいは出来る。よって、大多数の日本人の人たちの目からすれば、日本人としてはそれなりに英語が出来るレベルではあるとは思う。

 

しかし、だからと言って自分が偉いとか全く思わないし、英語力をわざとひけらかす事もない。何故そうなるのか、それは英語を追求すればするほど、必然的にそうなっていくものだと自分は思う。

 

英語力を得る事で、まず可能となるのが一人での海外旅行と、外国人と容易にコミュニケーションを取り、友達を増やせる事だ。もちろん、中国やロシア、そして南アメリカ大陸の国々などの人たちは日本人と同様、もしくはそれ以上かも知れないぐらい英語が通用しづらいものだが、ニューヨークや香港のように多国籍の人たちが集まる都市においては、どこのどんな国から来ようとまずは英語が話せないとお話にならない。

 

あくまで自分が経験してきた範囲の話とは言え、アメリカでは「人間は英語が話せるもの」と言う認識が大前提だ。例え東洋系であろうが、そんなのは全く関係ない。もちろん、チャイナタウンやその他特定の民族が済む地域であれば例外はあろうが、それでもまず「アメリカに住んでいる人間であれば、英語は話せて当たり前」と言うのは絶対なので、アメリカであればどこに居ようとお構いなしにネイティブ英語でどわーっと話しかけてくる。

 

つまり、前にも書いたが、いくら日本人では英語が特殊能力であって、周りから尊敬のまなざしで見られていようと、アメリカに入国した瞬間、「ただの人」となり、「英語が話せる事が凄い、偉い事」となどと言う認識も一瞬のうちに崩れ去る。それは香港、特に尖沙咀や中環辺りも似たような感覚であり、特に多国籍が集まる場所として名高い尖沙咀の「重慶大廈」ことチョンキンマンションにおいては絶対だ。住人はインドやパキスタンなどの中近東系が中心であるが、世界的にも有名なバックパッカーや貧乏旅行者御用達のゲストハウスが連なるビルディングなだけに、ここに居るだけでそれこそ世界中からやってきた人間が一挙にみられると言っていい。

 

もちろん、母語も人それぞれであるが、現在の地球において、そういう人たちが集まる場所においてまず最優先として使われる言語と言えば、これはもう英語しかない。これも前にも書いたが、何十回も訪れながらただの一度も「英語を話せるか?」と聞かれた事は一度もない。もちろん、チェックインの時などはこちらから英語で話しかける事もあるんだろうけども、それでもやはり「重慶大廈の住人=英語が話せるもの」と言う認識は絶対だ。

 

もちろん、重慶のみではなく香港の市街においても、返還後20年経ちながら今でも英語は公用語であり政治・ビジネス・観光においては最重要言語であるので、香港に居る間は常に「国際語である英語が公用語なんだから、どこから来ようと英語を話せ」と言う圧力も常に感じられるので、ここでも英語を話すことが偉いとか特殊だとかと言う概念はあっさりと崩れ去ってしまう。一応、香港の博物館などでは日本語マニュアルも用意していたりするが、解説の言語などは繁体中国語と英語しかなく、そうなると必然的に英語を読むしかなくなるし、さらにとうとう来年で閉鎖されるブルース・リーのエキシビジョンなどは英語しかないので、尚更だ。

 

そんな地に何度も足を踏み入れていたとしたら、たとえ日本に帰ってきたとしてもなかなかそこで築き上げられた感覚と言うのは消えないものだ。よって、知らず知らずのうちに自分自身も「人間であれば英語を話せて当たり前。別に凄い事でも何でもない。」と言う意識を植え付けられる事となってしまう。

 

話す事だけでなく、読むことにおいてもそうだ。リーディングの能力を向上させるには、英語のニュースを読む事は欠かせない。これはかなりの苦行であるが、TOEICで600点以上あれば、我慢して読み続けるうちに段々とスムーズに読めるようになっていく。そうなると、それまで勉強の一環としてやっていた事が、いつしか日常のルーティーンとなり極々自然に英語で情報を得る手段となっていく。そして、ヤフージャパンのトップで報道される国際ニュースが、CNNやBBCに比べるとかなりの時間差がある事に気付いていく。

 

例えば、2014年の7月に外食産業を震撼させ、日本マクドナルドに尋常ならざるダメージを与えた中国でのフードセーフティスキャンダルなどは、日本で報道される半日前にはBBCや香港RTHKで報道されていた。昼過ぎぐらいにようやくヤフーのトップに載ったが、すでに前者の報道で知っていた私としては「え?こんなに遅いの?」と思わざるを得なかった。

 

そして、同時に英語と日本語での情報量のあまりの違いにも自然と実感するようになり、それはWikipediaでもそう。香港映画や俳優の情報などを日本語のみで追ってもなかなか満足な知識は得られないので、そうなると英語版のWikipediaを読むのはもはや必然となる。世界中の人間が編集出来る英語版のWikipedia、日本と言う島国しかいない日本語話者から発信される日本語のみの情報とはまさに天と地ほどの違いだ。

 

そうなると、自然と「英語のサイトを読めなければ、どうやって情報を得るんだ?」と言う認識までさらに植え付けられる、イコールこれも「人間としてなら当たり前の能力」と言う意識が段々と強まり、自然となっていってしまうので、そうなると「英語を介して情報を得れる事」も当たり前と言う感覚になってしまうのだ。

 

よって、英語が出来る事が特殊でもなんでもなく極当たり前の事、と自分自身が受け止めるようになってしまったため、周りとのギャップに違和感を覚えるようになってしまった訳ですね。そこが英語学習者にとって周りとのジレンマを感じてしまう、と言う訳です。