WWFマニア・ツアー | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

高校生の頃、今のさがみ野駅前のブックオフがある辺りに当時はアコムと言うレンタルビデオショップがあったのだけれども、何故か1面全部を埋め尽くすほどプロレスビデオが充実しており、学校帰りに随分と利用させてもらっていた。

業界1の新日本プロレスのドーム大会や、ビデオで大儲けした新生UWFなどはもちろんの事、80年代のプロレスビデオ黎明期のものまで網羅しており、とにかく質・量ともに膨大で、その中にはWWE(WWF)のPPVのビデオまで含まれていた。

今でこそ、日本でもそれなりに知名度が高まったWWEであるが、当時は全米でこそダントツの団体であったものの、まだまだ世界規模の展開と言う訳でもなく、当然日本ではプロレスファンでしか知らない存在だった。とは言うものの、大ブームを巻き起こした初代タイガーマスクと、名勝負数え歌の時代に、すでにWWE認定のベルトが使われていたので、プロレスを知っていれば自然にWWEも知っている、ぐらいの知名度はあったと思う。

そのWWE、1970年代に新日本プロレスと反NWA主義が合致して以来、長年提携関係に至っていたものの、ビンスJrが買収、そして全米侵攻を開始して以来、トップレスラーの派遣を渋るようになった事と、依然として高額だった提携料などが要因となり、1985年6月に完全に提携解消と至る事となってしまった。

数年後、テレ東で放映されていた世界のプロレスも打ち切りとなり、これによりブラウン管からはWWEの存在はほぼ消えた事となっていたが、実はWWEは単独で日本侵攻を計画しており、その一環がPPVの日本版ビデオリリースだった。

レッスルマニアはもちろんの事、当時の3大PPVであるサマースラムとロイヤルランブルなどもリリースされており、日本語実況は土居氏と斎藤文彦氏の二人が主に、たまに元全日本実況の倉持氏と、おなじみターザン山本氏らが担当しているソフトもあったが、多少の毒舌は気になるものの、やはりアメプロに詳しい前者の方が聞いていて面白みがあったものだった。

当時は、もちろん新日本プロレスを中心に見ていたものだったけども、子供の頃は日本よりもアメリカやメキシコなど、ショーアップされたプロレスが好きだった時代もあった。その後、日本ではUWFの影響もあり、やはりショーマンより真剣さを前面に押し出すのが好まれたが、個人的にはプロレスなら何でも好んで見ていたので、な訳でたまにレッスルマニアのVHSなども借りて行った。

カード的に6,7,8しか惹かれるものがなかったので、結局その3本しか見ていなかったのだけれども、いずれもさすがにプロレスの本場はアメリカ、と言う事を改めて実感せざるを得ないほど素晴らしいPPVばかりだった事もあり、当時は極めてマニアックなジャンルであったにも関わらず、アメプロの虜になってしまっていた。

また、VHSとは別に、WWEは80年代からすでにアーケードゲームにも実名仕様の許諾を出しており、日本でもテクノスジャパンからリリースされていたWWFスーパースターズや、WWFレッスルフェスト、家庭用でも悪名高きアクレイムジャパンから、SFCやMDなどで数々のクソゲーがリリースされており、ゲーマー間においてもWWFの知名度はそれなりに大きく、これで知った人も多かった事だろう。

そんな中、1990年4月13日、遂にWWEが主催となり東京ドームでビッグイベント「日米レスリング・サミット」を開いた訳だけども、前述のように当時は新生UWFが人気最高潮、まだまだ勝負論が根強く、日本のプロレスファンは日本のプロレスこそ世界最高、として全く信じて疑わなかった(もちろん私も)ため、なかなかチケットが捌けず、全日本と新日本の協力、そしてスタン・ハンセンVSハルク・ホーガンのテコ入れをして、ようやく5万人の観客を集めた、と言う感じであった。

一応、歴史的事実としては、これがWWEによる初の日本公演と言う事になるのだけれども、前述のように両団体の協力、選手コールも日本語など、完全にアメリカそのまま、と言う訳ではなかった。よって、本当の意味でWWEが日本公演を行ったのは、やはりそれから4年後のWWFマニア・ツアーと言う事になるだろう。

横浜、大阪、名古屋、北海道の大都市圏、しかも新日本ですら動員に苦戦する横浜アリーナや大阪城ホールなどの大会場、普通に考えたら満員に出来る確証がない限り、どの団体も敬遠する会場ばかりなのだから、WWEの首脳陣としてはかなりの勝算があったに違いない、と思う。一体、どこからその自信を得ていたのかは不明だが、結論から言えばどの会場も閑古鳥鳴きまくりのガララーガ状態、それはそれはお寒い限りの、どうやっても擁護しようのない大失敗なツアーであった。

実を言うと、「アンダーテイカーが来る」と言うほぼひとつの理由だけで、プロレスは好きだがWWEの事などまるで知らない友人を誘い横浜アリーナに参戦したのだけれど、前年の超満員に膨れ上がった新日本のG1クライマックススペシャルとは同じ会場とは思えないほどのガラガラ、青いシートばかりが目立つ冷え冷えの館内にはひたすらお寒い空気が流れるばかりであった。

ターザン山本などはどう思ったのか知らないが、週刊ゴングなどは「キョードー東京はプロレス興行に不慣れだったため云々...」と言う論調に終始しており、決してWWEそのもののせいではない、と言う持っていきかたをしていたが、どう考えてもそれは単なる責任転嫁。それなりに埋まるだろう、と思っていた私でさえ、後で冷静に考えてみたらこれは失敗して当たり前、むしろ成功する方がおかしい、と思わざるを得ない要因だらけだった。

前述のよう、WWEは日本でのプロモをキョードー東京に一任していたようだけども、当時、日本のプロレス界は今よりも好調だったとは言え、インターネットもまだない時代、それはあくまでプロレス村内での人気でしかおらず、決して世間までに届くようなブームではなかった事。つまり一般世間とは完全に隔離された時代。さらに、頼みの綱の新日本プロレス中継が深夜に追いやられてしまった事も、それに拍車をかけた。

プロレス雑誌的には、これでゴルフ中継に邪魔されず安定した放映を云々...と言う感じであったものの、実際はこれで若年層がファンになるきっかけを完全に消失、結果的にこの辺りからファンの新陳代謝がうまく機能しなくなり、後の暗黒時代を迎えるきっかけとなってしまった。当時は80年代からの生き残りファンが多かった事もあり、経営的には即座に影響が出る事もなく、大きなダメージと受け止める人はいなかったのかも知れないが、先の事を考えたら、やはりこれは大きなボーンヘッドだったと言わざるを得なかった。

多少話は飛んだが、こんな時代背景により、世界最大のプロレス団体が来る、だけで飛びつく一般マスコミは皆無に等しく、せっかく前年にランディ・サベージがこれだけのために来日したにも関わらず、結局プロレスマスコミだけの露出で終わってしまった。

しかし、これがもしサベージではなく、アメリカン・プロレス最高のヒーローであったら多少変わっていたかも知れない。それは、もちろんハルク・ホーガンだ。WWE全米侵攻の立役者、アメリカ人が真っ先に思い浮かべるプロレスの象徴。もし彼が来ていたら、とは誰しもが思った事だろう。では、何故そんな最重要人物が来日しなかったのか?それは、93年のレッスルマニア9後、映画業に専念するためWWEをほぼセミリタイアしていたからだ。同年9月と、翌年1月に新日本プロレスに来日し試合を行ったが、あくまでホーガン個人としての契約だったため、WWEの表舞台からはほぼ姿を消していた。

そして94年初夏、彼は突如として、長年ライバル関係にあったWCWと電撃的に契約を締結。当然、WWEとは絶縁状態に陥り、その代わりにWWEがエースとしてプッシュしたのが"ヒットマン"ブレット・ハート。常連外国人と言う感じではなかったものの、有名なハートファミリーの一員、そして初代と2代目の両タイガーマスクと対戦経験あり、さらにシャープシューターと称したサソリ固めを必殺技とするなど、日本のファンにもその名前は馴染みが深かった。

レスリングも上手く、キン肉マン・パフォーマンス一辺倒のイメージだったWWEのマットの風景を、今に至るまで変えていったのは間違いなく彼の功績が多くを占めている。しかし、やはり10年近くに渡りアメプロの象徴であり続けたハルク・ホーガンに続くエースとしては、日本のファンからしてまだまだ物足りない、と言うイメージの方が遥かに上回っていた。他にもテイカーやサベージも来日していたものの、やはりゴールデンタイムの電波に乗り、一般知名度も高かったホーガンとは比べるもなく、よって日本公演的に言えば最悪のタイミングでホーガンを失った、と言う感じであった。

そして、何と言っても、当時の日本のファンにとって、日本のプロレスこそ世界最高峰、としてまるで信じて疑うものではなく、アメプロなるものはキャラクター、パフォーマンスにこびりきったショーに過ぎず、見下される存在に過ぎないものだった事、これが何より最大の要因だった。確かにホーガン居ないのは大ダメージだったものの、居ても多少の動員に影響するだけで、あの大会場群をフルハウスにする事はおおよそ不可能だったと思う。そのぐらい、当時のファンはアメプロを見下していたし、そのせいもあってか、ジャイアント馬場やキラー・カーンなど、アメリカで大成功を収めた日本人レスラーの凄さすら良く理解出来ていなかったと思う。

今でこそ、ジャンルを問わず日本人がアメリカで成功する、と言うのは大変な偉業であると言う事は誰もが認知しているだろうが、プロレス界的には当時、若手が割と簡単に武者修行に出されていた事などから、日本人がアメリカマットに上がる、と言う事などごく普通な事として捉われており、アメリカマットで成功、と聞かれても、それが物凄い偉業であると言う事がいまいち、と言うかほとんど理解されていなかったように思う。もちろん、映像も容易に見れるものではなかったから、ファン歴の長い私でさえ、若き日のジャイアント馬場がMSGのメインに登場、1週間で1万ドルを稼ぎ出す事の凄さ、偉大さは、死後数年経ってようやく理解出来たほどだった。よって、昭和を代表する大ヒーローでありながら、もしかしたら日本で最も不当な評価を受けたレスラーのひとりだったかも知れない。今となって、若干23歳にしてアメリカ、しかもニューヨークで大成功を収め、2度目の渡米では世界三大王座に連続挑戦など、誰にも真似の出来ない大偉業を成し遂げた事は、ファンなら誰しもが周知の事実だ。

また話が飛んだが、前年の93年は日本ではパンクラス旗揚げ、そしてアメリカではあの伝説の第1回UFC、黒船と言われたホイス・グレイシーが世界の格闘技界を震撼させた年でもあった。94年にはその第2回と、夏には修斗主催の大会に遂にヒクソン・グレイシーが初来日、そして年末には安生の道場破り失敗と、流れが完全に格闘技寄りになってきていた事も、WWEにとっては不運だった。

こんな時代背景なら、マニアツアーの失敗は当たり前の事。今思えば、本当に良くもまあこんな無謀な計画を組んだな、と思うしかないが、当時の首脳陣によればWWEがそのままパッケージとしてくれば自然に満員になる、と言う感じだったらしいから、なんともお花畑としか言いようがない。私も、当日の横浜アリーナは最後まで観戦したものの、覚えている事と言えばグッズ売り場だけは大盛況、青柳の刀が吹っ飛ぶ、天龍の曲がカバーバージョン、何も映らないモニター、何もない演出、そして絶対にタイトルが移動する事のないヒットマンとサベージのまるで盛り上がらない試合に、シャープシューターであっさりとギブアップ、その直後にダッシュで新横浜駅へ向かった、このぐらいだ。

この大失敗が効いたか、ツアーはもちろんの事、VHSもゲームのリリースも消え、一旦WWEは完全に日本と距離を置くようになった。団体的にも、サベージを始め、トップスターが次々とWCWへと引き抜かれ、さらに裏番組を置かれ、そしてあのNWOの一大ムーブメントもあり、80年代のアメリカを制したWWEは完全にWCWの後塵を拝してしまう。

この当時は、私も週刊プロレスに切り替え、毎週アメプロの記事を読んでいたものの、どう見てもNWOホーガンをトップとしたWCWの方が読んでいて面白かった。そこに再び変化が訪れ始めたのは、皮肉にもNWOだらけになると言うマンネリと、ビンスが究極の手段として、マイク・タイソンをWM14の直前から登場させた事から。そして、それに盾突いたストーンコールド・スティーブ・オースチンと、あまりにも有名なビンスとの抗争、そしてそして、”皆の王者”ザ・ロックの大躍進、これらが全て上手くかみ合い、同年あっさりとWCWを逆転、そして3年後の買収劇と、WWEは名実共に世界最高峰のプロレス団体と登り詰め、今に至る事に。

日本でもスカパーがWWEを放送する事となり、他のスポーツ目当てで契約した人までWWEの虜、そしてザ・ロックの映画出演による飛躍的な世界的知名度の向上により、2002年3月1日、約8年ぶりに公演を行った横浜アリーナは、前回とは打って変わってチケットは即日ソールドアウト、当日は超満員の観客で溢れかえり、見事にマニアツアーの雪辱を晴らす事に成功した訳であります。