人生初の渡米 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

ニューヨーク、と言うのは世界中の誰もが認める世界一の都市だ。実際、東京や他国の世界都市の方が優れている部分もあるのだけれど、それでも大半の日本人にとっては「ニューヨーク=凄い」だ。実際、周りに報告している最中も、ほとんどの方がそんなリアクションを取ってくれた。それだけでも大分優越感に浸れたものだけど、「うらやましい」とか言われるのだけは本当に不快だった。

たった3ヶ月とは言え、当然の事ながら日本での生活、友人、同僚などを全て捨て去り、ほぼゼロに等しい部分から見知らぬ土地で生活を始めなければならないのだ。旅行などとは訳が違う。正直、そういう意味からも期待より不安の方が遥かに上回っていた。そんな精神状態の時に、軽々しく「うらやましい」と言われるのだけは本当に嫌だった。年上の主婦連中にも平気でため口を聞く礼儀知らずの自分は、あまりにも頭にきたので、「遊びに行くんじゃねえんだけど?仕事しに行くんですけど!」と突っかかっていったものだ。

まあ一部そういう輩はいるものの、基本的に基地の連中はいい人たちが多い。中には応援してくれたり、寂しいと言ってくれる人たちもいて、そういう声を耳にするたびにうれしかったものだ。逆に、充実していたからこそ、その場を離れたくなかったのも事実だった。特に、自分には特別な理由があり、その子と3ヶ月も離れ離れになるのは本当に辛かった。割といい感じだったから、なおさらだ。

そうは言っても、4月24日は絶対にやってきてしまう。ギリギリまでインしていたかったので、前日の14時までスケジュールを提出し実際その通りになった。何故14時なのか、それはフライトが午前11時と比較的早めのため、念には念を入れて、事前に成田に一泊する事にしたからだ。人生における一大イベント、旅行に行くとは訳が違う。念には念を入れるのは当然の事だった。

ただ、当然海外へ行く事自体は慣れきっていたから、その点での不安はなかった。スーツケース1台では心もとなかったので、2台目を購入しようかとも考えたが、負担を考えボストンバッグをアマゾンで購入したのみだった。新しくした事と言えばその程度だ。よってパッキングがコンプリートしたのは本当に行く直前だった。まあ今思えば2台目があっても良かったとは思うが、何かあればアメリカで何とかすれば良い、そんなつもりでいた。

そして4月23日、皆に別れを告げ、最寄り駅から成田空港へと電車で向かった。成田空港への直行バスは、相模大野や本厚木からも出ている。荷物や移動の負担を考えれば、後者の方が楽だし、実際過去に何度も利用はしていた。しかし、「家から出て帰るまでが遠足」ではないが、せっかくの海外なのだから、家を出た瞬間から思いっきり「非日常」を満喫したい、と次第に思うようになっていった。それに、バスでも飛行機でも座りっぱなし、と言うのも案外つまらないし、きつい。それにどうせ一泊するんだから、多少移動の負担があっても大丈夫だ、と言う訳で、今回も電車移動を選択した。

予定では新宿から山手線で日暮里へ行き、そこからスカイライナーで第2ビル、と言う考えでいたが、何と上野駅発のスカイライナーは1830ほどで終了、以降は本線経由のイブニングライナーとなってしまう事を初めて知った。つまり、わざわざ日暮里へ行っても、在来線最速の160Kmは味わえず余計な時間を食ってしまう訳だ。さすがにそれは馬鹿馬鹿しいので、新宿から成田エクスプレスに乗る事とした。

成田エクスプレス、と聞いて思い浮かべてしまう事のひとつに、新小岩駅における人身事故の多さがある。上りはともかく、空港行きの下り線で遭遇してしまったらそれこそ一大事だ。よって、普段であれば避けるべき手段かも知れないが、今回は事前に1泊と言う事で、それに対する障害はひとまずなかった。

しかし、スカイライナーに押されぎみの成田エクスプレス、少しでも乗客数を確保するためか、何と当該列車は東京から成田までノンストップではなかった。まあ急ぎではないからたいした問題でもなかったものの、せっかくの特急なのだからそれなりのスピーディーさを味わいたかったのも確かだったので、若干残念に思えたものだ。しかし、さすがにJRの特急だけあって乗り心地は最高、途中エージェントから確認の電話なども受けつつ、無事空港第2ビルまでたどり着く事が出来た。

そのまま空港で夕食を取り、シャトルバスでホテルへ。3年前に1泊した時は、成田ビューホテルと言うホテルにわずか3000円程度で泊まれたものの、その後早朝LCCの増加によりホテルの需要が高まったおかげで、どこも5000円近くかかるようになっていた。よって、今回は数少ない4000円台で泊まれた成田ゲートウェイホテルに1泊する事になった。

到着すると狭いロビーは大混雑しており、中国系団体のツアー客が占拠していた。しかし、彼らの話す言語はどこか心地よく、懐かしい、そう、広東語、つまり香港からのツアー客であった。香港では日本を紹介する番組もあり、台湾に負けないぐらい日本製品、キャラクター、そしてレストランが香港の街には溢れている。それに加え、今回の劇的な円安だ。別におかしい光景ではなかったが、まさかここで香港人と一緒になるとは思わなかったので、素直にうれしく感じたものだ。

また1泊の価格は4800円程度だったと思うが、さすがに同価格帯の香港のゲストハウスとは比較にならないほど部屋は綺麗で、1泊だけではもったない、とすら思えたものだ。

そして運命の4月24日金曜日、空はまさに自分の新しい人生を祝ってくれるかのように快晴だった。と言うか、万が一飛行機が大幅な遅延でも起こしたら、現地でエージェントやシェアハウスのオーナーに連絡を取らなければならなかったので、ひとまず安心した、と言うのが本音だった。

空港にさえ着けばあとは手馴れたものだ。すでに10回以上も訪れている日本と世界を繋ぐ玄関先、当然大きな感動などはすでになかった。しかし、太平洋を渡る長距離フライトは人生初だ、2chなどで得た情報を元に、アイマスクやクッションなどをストアで購入し、同時にユニクロでTシャツなども購入した。

朝食は大体マクドナルドや、ここ数年で出来たセブンイレブンで済ませるのが恒例となっている。しかし、国際空港に位置する店舗でありながら、いずれも英語表記がない。よって、前者は画像で判断、後者はほぼ日本人専用だ。東京五輪まであと5年しかないのに、この程度のインフラで大丈夫なのだろうか?当然の事ながら、50年前とは比較にならないほどの外国人観光客がやってくるだろう。それでいて5年前の時点でこれとは、周辺を見渡してどうしようもない苛立ちと不安に駆られてしまった。

チェックインから制限エリア内まではいつも通りだ。しかし、チェックインの際、現地住所を聞かれたり、いつもよりも厳しいな、と言う感じではあった。そして制限エリア内に新しく出来た通路や、最新のトイレを拝見しながら、「とうとうアメリカに行くんだな」そんな感慨にふかれていた。

前回も書いたが、飛行機はダラス・フォートワース空港経由のNY行きだ。他にもLA経由などもあったが、全て夜中到着、と言う事もあって前者を選択した。また、それ以外にも理由があった。幼い頃からプロレスの虜だった自分にとって、テキサスと言うのは特別な場所だ。思いつくだけでも、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ、ザ・ファンクス、ダスティ・ローデス、そしてストーンコールド・スティーブ・オースチンやブラッドショー・レイフィールドなど、新旧のスーパースターたちを数多く生み出してきた、まさにプロレスの聖地だ。もちろん、そこで観光する事こそかなわないものの、少年時代からそういう認識を得てきたテキサスに降り立てる、と言うのは感慨無量だった。

そしてアメリカンの航空会社というのももちろん初めてだ。もちろんANAやJALも就航しているが、日系航空会社なんてはなから眼中になかった。当然日本語サービスは行き届いているだろうが、飛行機の時点ですでに「世界」を体験したい自分にとっては無用の長物なので、日系と言う選択肢は最初からありえないのだ。

しかし、チャイナエアラインなどアジアの航空会社を頻繁に利用していると、当然「フライトアテンダント=若い女性」だ。特にCAは美人揃いなので、海外旅行においては絶対に欠かせない楽しみのひとつだ。しかし、今回はアメリカ。そんな常識は通用しなかった。事前に情報を得ていたのでショックはなかったし、これがアメリカなんだな、と思わせてくれたから別に不満はなかったのだが、そのおかげで食事以外はひたすらアイマスクを付けて横になって寝るしかなかった。

12時間ともなると半日だ。半日をあの狭い飛行機のシート上で過ごすとか想像付かないものだったが、案外何回かうとうとする事も出来たし、着いてしまえばあっという間、そんな感じだった。

飛行機内のモニターには地図が表示されるが、さすがにアメリカ大陸に上陸した時は感慨無量だった。日本人が、まず初めに意識する外国はアメリカだ。特に、前述のように時分は幼い頃からアメリカン・プロレスに引かれ、アメリカに関する英単語・地名などはほとんどプロレスから学んでいった。ちょっと大きくなり、野茂ら日本人大リーガーが活躍する頃になると、今度はMLBへの憧れに目覚めた。しかし、アメリカは遠く、また当時の自分には英語力も資金力も、そして勇気すらなかった。アメリカに行く事など想像も付かない事だった。しかし、その願望が今まさに叶えられようとしているのだ。それを思うと、自然とアイマスクの下が濡れていくのを感じた。

そして12時間のフライトを経て、経由地のダラスへ到着した。当然だが、成田とは比較にならないぐらい大きく、また敷地外に見える大地もとてつもなく広大なものだった。遂にアメリカに来た、その思いしかなかった。

しかし、NYのラガーディア空港は国際空港ではないため、入国手続きはこちらで済ませる必要があった。もちろん、英語は問題ない。しかし、ビザもないのに3ヶ月、と言うのは不審ではないかそこで事前に考えておいた回答が、「私は大リーグのファンなので、野球を見に来た」。これだった。知ってのとおり、NYには2つものチームがあり、うちひとつは言うまでもなく世界野球界最大の名門・ニューヨーク・ヤンキースだ。日本人である私がその魅力に惹かれている設定であっても、何の違和感もない。案の定、質問はパスし、遂に人生初のアメリカ入国となった。私の胸はいやおうなく弾んだ。

到着時刻は24日の8時半だった。つまり、同じ日を2度迎える事になる。まるでタイムスリップした気分で、もちろん人生初の経験でもあった。フライトまでも多少の余裕はあったので、疲れも忘れ初めてのアメリカの空港を満喫した。途中、パスポートを机に置き忘れる、と言う大失態もあったが、すぐに戻ると親切なアメリカ人が持っていて渡してくれた。普段、持ち物に関しては慎重すぎるほど慎重である私であるが、何故かパスポートだけはそういうミスが多かった。本当に危ないところだった。

NYまでは3時間ほどだった。初のアメリカの国内線、当然日本人どころか東洋人すらいない。しかし、アメリカで東洋人と言えばまず中国人と思われる、その辺りの事が胸をよぎった。

途中、トイレに行きたくなったが、ビジネスクラス後方のを使っていいのか一瞬ためらった。幸いアテンダントが座っていたので、英語で尋ねて確認をとったのだけれど、返答があまりにも早口で全く聞き取れなかった。自分が東洋人だろうがお構いなし、アメリカに居るなら英語を話せるのが当たり前、それを初めてこの旅で意識した瞬間だった。

到着先は、NYのクイーンズに位置する小さな地方空港・ラガーディア。着陸直前、アナウンスがあり、窓を見るとNYの象徴・自由の女神と、マンハッタンの摩天楼が雄大に構えていた。遂に世界一の都市にやってきた、私の胸は高まるばかりだった。

入国審査はダラスで終えていたので、荷物をピックアップして指定の場所に待ち合わせるだけだ。すぐにオーナー姉弟と会う事ができ、そのまま住居まで直行。天気は快晴、初めて見るニューヨークの空は真っ青だった。

住居までは20分。オーナーさんらはミャンマー出身との事らしいが、見た目は完全に東洋人、訛りはあるものの日本語もペラペラだ。ただ、アメリカなのだから英語を話したい、そんな感情が出てしまったせいか会話は弾む事はなかった。

シェアハウスは一見普通のアメリカの家だが、階毎にバスルームとキッチンがあり、それぞれの住人で共用出来るようになっている。私の部屋は半地価、つまり窓が少し除いている状態でほぼ地下、しかも本来なら明らかに倉庫、物置と言った感じ。机、ベッド、フラットTV、ハンガーと最低限のものは準備はされている。掃除も綺麗にはされているが、どうしても倉庫、と言うイメージは拭いきれなかった。「ここで3ヶ月も過ごすのか…」。まるで精神と時の部屋に入った時のトランクスのような心境だった。

一通り荷物を置いた後、オーナーの男性が周辺を案内してくれる事となった。周辺は多種多様なお店が並び、大きなスーパーもあり、生活する上で必要なものは全て存在していた。マクドナルドがなかったのは残念だったが、後にグーグルマップで調べると徒歩圏内に位置しており、かろうじて通える位置。

最寄り駅も家からわずか2ブロック、2分ほど。マンハッタンまでは次のルーズベルトAV駅で急行に乗り換えれば一直線だ。通勤にも全く困らない。メトロカードの買い方もガイド本ですでに習得済みだった。

こうしてみるといいことづくめな感じであるが、実は現実はそうでもなかった。まず、街はほぼリトルチャイナと化している事。スーパーは店員は全員、客のほとんども中国人。周りも漢字だらけ。中国人以外と言えば、メキシコをはじめとする中南米の人々。つまり、歩いて聞こえてくる会話はほぼ中国語かスペイン語オンリーだ。

前に香港の魅力を語った時、一番はそのグローバル性である事に触れた。つまり、こういう環境は本来は苦手ではないはず。しかし、にも関わらず満足感はなかった。何故か。要は、せっかくアメリカ、しかも大都市のNYCに居るにも関わらず、アメリカ人も居なければ英語も聞こえてこない。こんな環境では「俺本当にアメリカに来たのかな?」と思って当然だ。もちろん、私が話す言葉は英語しかないし、もちろん普通に通じる。しかし、周りを見渡せばやっぱり中国人だらけ、聞こえてくるのは北京語ばかり。中華料理屋や、マーケットで日本食が買える事自体は大変助かったし、そういう意味で感謝の気持ちもあるにはあったのだが、ここに居て良かった、と言う幸福感は最後まで得られる事はなかった、と思う。

夜になると、食べ物を求めてひとりで探索。しかし、まだ財布にはドルの余裕もないので、香港で良く食べた屋台でどうにか空腹を紛らわす。そんなこんなで、私の長い、長い4月24日はようやく終わりを迎えていった。