他力信心を賜って以来、足かけ18年他力信心の話をしてきました。僧侶、布教使、某真宗系宗教団体の人たち等いろいろな人と話をしてきました。先日は、元ビハーラ僧だった方と、ビハーラの実態や、生死の問題についてかなり踏み込んで話をしました。

私は、

「生死の問題を本当に求めているのか」

「自分自身が他力信心を賜っているのか」

「まだ賜っていないのであれば、他力信心を賜りたいと本気で願っているのか」

というところまで話しました。

私にとっては、かなり根本的な話でした。

これまでのビハーラのお取次ぎ取り組みの世界がひっくり返るくらいの話をしたつもりでした。

その方とのメッセージの最後には、

「有難うございました。今後も精進していきます」

とありました。

 

ところが、その後、その方が別の法座の場所で話しているのを聞く機会がありました。

そこで話されていたことは、以前とほとんど変わっていませんでした。

「ああ、あれだけ話しても、やはり届かなかったのか……」

正直、残念でした。

 

僧侶や布教使、某真宗系宗教団体の人たちと話しても、同じような経験を多々してきました。

こちらは、これまでとは違う領域、違う地平から話しているのに、相手は以前と同じ話をしています。

そこで、ふと思いました。

人は、自分が立っている世界の外側の話を、なかなか理解できないのです。

「見えている世界」がすべてではない

たとえば『進撃の巨人』。

登場人物たちは長い間、自分たちが知っている世界を世界のすべてだと思っています。

ところが、壁の外に出ると、それまでとはまったく違う世界が広がっている。

そこで初めて、

「自分たちが世界だと思っていたものは、世界の一部だった」

と分かります。

これは、単に「知らない場所があった」という話ではありません。

世界そのものについての認識が変わる。

そこが重要です。

家のリフォームのためにロフトを片づけていたときにも、同じようなことがありました。

これまで何度も見ていたはずなのに、物を片づけていくと、

「こんなところに、こんな空間があったのか」

と気づく場所がありました。

そこに空間が生まれたわけではありません。

最初から存在していた。

ただ、それまで見えていなかっただけです。

つまり、

「見えていなかった」ことと、「存在していなかった」ことは違います。

真理・他力信心の境地も同じです

このことは、真理との関係にもそのまま当てはまります。

私たちは、自分がこれまで学んできたこと、経験してきたこと、教えられてきたことを基準にして世界を見ています。

そのため、自分が理解している世界を「すべて」だと思ってしまいます。

しかし、

自分に見えていないからといって、そこにないわけではありません。

ロフトの空間が最初から存在していたように、真理も、人間が発見したときに初めて存在するものではありません。

真理は、私たちが気づく前から、すでにそこにあります。

しかも、どこか遠い場所にあるのではありません。

私たちが生きているこの世界に、すでに満ちています。

問題は、真理が存在するかどうかではありません。

自分が、それを見ているかどうかです。

そして、ここに「教えを知っていること」と「真理に出遇うこと」の違いがあります。

僧侶として仏教の教えを学ぶことはできます。

経典を読むこともできます。

教学を学び、法座で人に話すこともできます。

 

しかし、それだけで、

「その人自身が真理に出遇っている」

とは言えません。

浄土真宗であれば、さらに、

「その人自身が他力信心を賜っているのか」

という問題になります。

まだ賜っていないのであれば、

「他力信心を賜りたい」と本気で願っているのか。いまここで自身は、本当に生死を超えているのか。

そこまで自分自身に問いかける必要があります。

私が話したかったのは、その先のことだった

今回、私が話したかったのは、教えの解釈を一つ増やすことではありません。

「いま自分が立っている場所だけが、すべてだと思っていないか」

ということです。

そして、

「お取次ぎのお相手に話をしている、その自分自身は、他力信心を賜っているのか」

ということです。

これまで学んできた教えの中だけで答えを探している限り、自分が見えている世界から出ることはできません。

 

このように、

「自分がまだ見えていないものがある」

と問い直す必要があります。

その問いがなければ、目の前にある真理にも気づかないまま臨終を迎え、また迷いを繰り返すことになります。

「わからない」のではなく、見えている世界が違う

今回のことを考えると、「話が理解されなかった」というだけではありません。

こちらが話しているのは「壁の外」の話なのに、相手は「壁の中」の世界で話している。

こちらが「こんな空間があります」と話しているのに、相手は「そんな空間は見たことがない」と言う。

だから、話がかみ合わない。

見えている世界そのものが違うからです。

 

今回、話をした人たちは、すぐには何も変わりませんでした。

以前と同じ話を、別の人にしていました。

正直、残念でした。

しかし、そこで相手を変えようとする必要はありません。

私は、自分が見えているものを話しました。

これまでとは違う地平から話しました。

それで十分です。

 

この話を聞いて、

「自分が見ている世界だけが、すべてではない」

と立ち止まる人がいるかもしれません。

「自分自身は、本当に他力信心を賜っているのだろうか」

と問う人がいるかもしれません。

 

もしかしたら、ごく少数でも

「他力信心を賜りたい」

と本気で願う人がいるかもしれません。

 

私は、真理をこちら側から引っ張ってくることはできません。

ただ、

「いま見えている世界だけが、すべてではない」

と伝えることはできます。

真理は、すでに周り中に充満しています。

あとは、本人がそれにきづくかどうかです。