浄土真宗の僧侶・布教使、真宗学の研究者の方とお話ししていて、どうしても理解できないことがあります。
それは、「信心」と「信知」が厳しく分けられていることを知っているはずなのに、なぜ説法になると、
「ただ阿弥陀仏を信じればよい」
「念仏を称えていれば往生できる」
という話になってしまうのかということです。
教学を学んだ人なら、「信心」と「信知」の違いを頭では知っているはずです。
それなのに、実際の説法では、いつの間にか「信じる」という一般的な言葉に置き換えられてしまう。
なぜなのでしょうか。
教学として知ることと、自分自身に問うこと
「信知とは何か」
「疑情とは何か」
「自力と他力はどう違うのか」。
真宗学を学んでいれば、これらを説明することはできます。
しかし、教義として説明できることと、その教えを自分自身の後生の問題として受け取ることは別です。
お聖教を読んで、
「信知とはこういう意味です」
と説明するだけなら、自分自身が問われることはありません。
しかし、本当に自分に向けられた教えとして読むなら、
「私はどうなのか」
という問いが生まれます。
私は本当に信知しているのか。
私の疑情はどうなっているのか。
私は後生の一大事を、自分自身の問題として問うているのか。
ここまで自分に返して読めば、単なる教学上の知識では済まなくなります。
「信じています」だけでは、なぜ足りないのか
「阿弥陀仏を信じましょう」と言われれば、
「私は阿弥陀仏を信じています」
と言うことができます。
念仏を称えていれば、
「私は浄土真宗の教えを信じています」
と言うこともできます。
しかし、「信知」を問題にすれば、それだけでは終われません。
「信じているつもり」と「信知」は同じなのか。
本当に疑情が晴れているのか。
自分の力で納得しただけではないのか。
こうした問いが出てきます。
そして、この問いは聞く側だけに向けられるものではありません。
説く側自身にも返ってきます。
お聖教を自身の問題として読めば、「私はどうなのか」と考えずにいられない
祖師や蓮師のお聖教を拝読していても、私は不思議に感じることがあります。
「雑行を捨てよ」と示されている。
自力の心を捨てよと教えられている。
疑情を抱えたままでは、迷いの世界を繰り返すことが示されている。
そこまで拝読すれば、
「では、私はどうなのか」
という問いになっていくはずです。
ところが、そこを問わずに、
「浄土真宗の教えでは念仏を称えます」
「阿弥陀仏におまかせしましょう」
という話に戻ってしまう。
私には、そこがどうしても理解できません。
「信知」という言葉を知っているだけではない
「信知」という言葉を知っていることと、信知そのものは同じではありません。
教学上の知識があれば、信心や信知について説明することはできます。
しかし、聖教を自分自身に向けて読むなら、
「私はどうなのか」
というところまで問われます。
ここを抜いたまま、「信心」「念仏」「往生」を語ってしまえば、後生の一大事と信心決定という、浄土真宗の最も根本にある問題が抜け落ちてしまいます。
浄土真宗の説法の中では、「信心」と「信知」を曖昧にしてはいけません。
念仏を称えていることと、他力の信心を賜っていることは、同じではないからです。
