最近、ASD(自閉スペクトラム症)について調べていて、大学院時代のことを思い返しました。
そして、少し怖くなりました。
大学院では、教員や学生から、
「では、これは?」
「それなら、こういう場合は?」
「でも、前にはこう言っていましたよね」
と、いくら答えても質問が終わらない場面を何度も経験しました。
当時は、「研究者だから、納得するまで突き詰めるのだろう」と思っていました。
実際、研究では、
・疑問を持つ
・曖昧なところをそのままにしない
・矛盾を見つける
・納得するまで調べる
・一つのことを深く追究する
ことは、大きな強みになります。
ところが、ASDについて調べる中で、
曖昧さや不確実さを苦手とし、納得できるまで確認を繰り返すことがある
という特性を知りました。
すると、大学院時代の人たちのことが、別の角度から見えてきました。
もちろん、質問が多いからASDということではありません。
誰かを診断するつもりもありません。
ただ、私が出会ってきた人たちの中に、ASDの特性と重なる部分が多かったことは、改めて印象に残りました。
大学院時代だけではありません。
以前、何十年も所属していた某真宗系宗教団体でも、似たような人たちを見てきました。
「もっと聴聞すれば分かるのではないか」
と大衆説法を法話をする人との個人的な信心の沙汰がないのに聞き続けていました。
これに疑問を持った人たちは、この団体の元になったところや派生した先、もしくは真宗十派の寺院の僧侶たちと個人的な話を求めるようになった人もいます。
「この人の話を聞けば、今度こそ分かるかもしれない」
このように、一人の話を聞いて終わるのではなく、次の人、次の場所へと答えを探し続ける。いわゆる聴聞ホッピングを繰り返す人も多くいるようです。
最近では、AIに対しても同じようなことが起こっているように感じます。
AIに質問する。
答えが返ってくる。
でも、また疑問が出てくる。
「では、これは?」
「それなら、こういう場合は?」
そして、また質問する。
いわゆるAI壁打ちです。
さらに、タナトフォビア(死恐怖)の人たちが、死後の世界や意識について、どこまでも答えを求め続ける姿にも、似た構造を感じます。
一見すると、研究、宗教、AI、死への恐怖は、まったく違う話です。
けれども、その奥に、
「答えが得られれば、この不確実さや不安から解放される」
という共通した動きがあるように思います。
質問することと、納得することは同じではない。
答えを得ても、また次の疑問が生まれる。
その疑問を解消しても、また別の疑問が生まれる。
そうなると、質問はいつまでも終わりません。
ここはかなり重要な点だと感じます。
これは研究でも同じです。
研究者にとって「納得するまで追究する力」は大きな才能です。
しかし、人との関係では、それが相手を疲弊させ、心身の危機に追い込むこともあります。
同じ性質が、
ある場所では才能になり、別の場所では「こだわり」や「質問のループ」になる。
ここが、ASDについて考えるうえでの、とても興味深い点です。これはASDだけの問題ではないのでしょう。
不安が強い人も、宗教を求める人も、死を恐れる人も、AIに答えを求める人も、
「もう一つ先に確かな答えがあれば安心できる」
というところにいると、次の質問が生まれ続けます。
現在自著のお話会をしていて、質問にはできるだけ答えたいと思っています。でも、
相手が納得するまで、私が答え続けることとは別の話です。
人間から説明を受け続けて、自分の納得を完成させることと、他力信心を賜ることは次元が異なります。
「質問に答えること」と「相手が納得すること」は違います。
ASDについて調べたことをきっかけに、私は大学院時代の人間関係だけでなく、宗教団体で出会った人たち、聴聞ホッピング、AI壁打ち、そしてタナトフォビアの人たちまで、これまでとは違う目で見るようになりました。
問い続けることが、必ずしも真理に近づくことではない。
答えを集めることが、必ずしも不安を終わらせることでもない。
「もう一つ先の自分が納得する答えにたどり着けば安心できる」
というところから、どうすれば一歩出られるのか。
これが、私がお話会で提示していることです。
