「人からどう見られているか」が常に気になる人間の境涯

自分はどう思われているだろう。
嫌われていないだろうか。
認めてもらえているだろうか。
あの人より自分はどうなのだろう。

 

けれど、少し立ち止まって現実を見れば分かります。

道ですれ違った人のことを、私たちはいつまでも覚えていません。

みな、自分のことで精一杯です。

仕事のこと、家族のこと、今日の予定、自分の悩み、自分のこれから。

他人の人生を四六時中考えている人など、ほとんどいません。

 

それなのに、自分だけは他人からずっと見られているように思ってしまう。

なぜでしょうか。

それは、自分を中心に世界を見ているからなのだと思います。

自分が世界の中心にいるわけではないのに、自分の頭の中では、自分を見ている「他人」が存在している。

そして、その「他人の目」に振り回されてしまう。

 

でも、ここで終わってはいけません。

「誰も私を見ていないのだから、気にしなければいい」

というだけではありません。

では、私は何を気にして生きるのか。

ここから、他力信心を賜った後の問題と関係します。

人間の価値に序列をつける必要もない

人を見て、

「あの人は重要な人」
「あの人は自分にとって大切」
「あの人は有名だから価値がある」
「あの人は自分とは関係のない、その他大勢」

そんなふうに、人間に序列をつける必要もありません。

 

一人ひとりが、それぞれに真理との関係を持って生きています。

そのことに気づいている人と、まだ気づいていない人がいる。

私が他力信心を賜って、まず大きく変わったのは、ここでした。

それまで人間関係の中で大きく見えていたものが、急に小さくなりました。

誰が自分をどう評価するか。

誰が自分を認めるか。

誰より上なのか、下なのか。

そんなことは、どうでもいいことでした。

では、どうして他力信心に至るのか

ここは重要なところです。

人の目を気にするな、と言われても、気にしてしまう。

人と比べるな、と言われても、比べてしまう。

もっと自分らしく生きればいい、と言われても、その「自分」が何者なのか分からない。

つまり、自分の力で自分の迷いを解決しようとしても、そこから抜け出せない。

人間は、自分の力で真理をつかんだつもりになっても、結局は自分の考えの中をぐるぐる回ってしまいます。

 

だから、他力にきづくことが必要なのです。

自分が真理をつかみに行くのではない。

自分の力ではどうにもならない私に、真理・阿弥陀仏の本願が届いていた。

その本願に遇い、疑いを自分で晴らすことができないこと照らされ、他力信心を賜る。

 

そこで初めて、

「私は何をしているのだろう」

と見えてくる。

人からどう見られるかを気にしている。

人と比較している。

誰かに認められようとしている。

けれど、本当に大事なのはそこではなかった。

私と真理との関係こそが、私自身の問題だった。

他人を気にしている場合ではない

他人が自分をどう思っているか。

そんなことを考えている間にも、いのちは過ぎていきます。

誰かに認められるために、このいのちがあるのではない。

誰かより優れていることを証明するために、このいのちがあるのでもない。

人から特別に見てもらうためでもない。

まして、他人を「重要人物」と「モブ」に分けるためでもない。

 

一人ひとりが、それぞれに真理との関係を持っている。

真理・阿弥陀如来とつながって往生までの人生を共に生きる。

ここにきづいたら、他人の目に心を奪われている時間が、どれほど余計なことなのかが分かります。

だから私は、他力信心をお伝えしています。

 

「人の目を気にしないで、もっと楽に生きましょう」という話ではありません。

そんなことをしている場合ではない、無常が迫っているという話です。

このいのちは、いつまでも続きません。

他人が自分をどう見ているかを考えているうちにも、いのちは一刻一刻と過ぎています。

 

それよりも、

自分と真理・阿弥陀如来とのつながりはどうなっているのか。

ここから逃げないこと。

自分の力で真理をつかもうとするのではなく、阿弥陀如来の本願を聞き、他力信心を賜る。

真理・阿弥陀如来とつながって生きていることを知らされ、そのつながりの中を生きていく。

私がお話会でお伝えしたいのは、ここです。

 

人の目を気にしている場合ではありません。

人と比べている場合でもありません。

このいのちのうちに、他力信心を賜り、真理・阿弥陀如来とつながって生きることを急がなければならない。

それが何より肝要です。