分派と回帰、その背景にある「自己愛の濃縮」
最近、宗教団体の人間関係を見ていて、ひとつ気づいたことがあります。
それは、大きな宗教団体、その元になった団体、そこから派生した小規模団体という順番で、構成員の病理的な自己愛が濃くなっているように見えることです。
ただし、ここには一つ大事な点があります。
私がそう感じるようになった背景には、某真宗系宗教団体の代表者と、その息子に、非常に強い自己愛的な傾向を感じてきたことがあります。
その親子を中心として形成されている団体を見ていると、そこから派生した団体や、もともとの小さな団体についても、程度の差こそあれ、似たような自己愛的な人間関係が繰り返されているように見えるのです。
つまり、単純に、
「大きな団体から小さな団体へ行くほど自己愛が濃くなる」
というだけではありません。
最初から中心にある人物や組織の文化そのものに、強い自己愛的な特徴があり、それが元の団体や派生した団体にも、程度の差を伴いながら受け継がれているのではないか。
私は、そこまで考えるようになりました。
もちろん、私は個々の人物について医学的な診断をしているわけではありません。
「自己愛性人格障害である」と診断することと、言動から強い自己愛的傾向を感じることは別の問題です。
ここで見ているのは診断名ではなく、人間関係の中に現れている自己愛的な構造です。
大きな団体では、一人ひとりの存在感が薄くなる
大きな宗教団体には、当然ながらさまざまな人がいます。
教えを深く学びたい人もいれば、人とのつながりを求めている人もいます。
習慣として参加している人もいますし、指導者を強く信頼している人もいます。
また、教団に所属しながらも、自分で考え、教えについて批判的に考える人もいます。
つまり、大きな組織ほど、構成員の心理的な特徴も多様です。
そして、大きな団体では、一人の人間が全体の中で特別な存在になることは簡単ではありません。
どれだけ熱心に活動しても、自分の意見がすべて通るわけではありません。
自分だけが重要人物として扱われるわけでもありません。
自分の考えに従う人だけを集めることも難しいでしょう。
これは、自己愛的な傾向が強い人にとっては、必ずしも居心地のよい環境ではありません。
「自分は認められていない」という感覚から、別の場所へ移る
ところが、組織の中で、
「自分のことを分かってもらえない」
「自分の考えが評価されない」
「この団体は本当のことを分かっていない」
という思いが強くなっていく人もいます。
そこから組織を離れ、新しい団体を作ることがあります。
あるいは、すでに存在している別の小さな団体へ移っていくこともあります。
ここで重要なのは、必ずしも「大きい団体から、さらに小さい団体を作っていく」という一方向の動きだけではないということです。
大きな団体から分離して新しい団体を作る場合もあれば、そこから離れて、もともと存在していた小さな団体へ戻っていく場合もあります。
つまり、
大きな団体から分離して新しい小規模団体を作る人
と、
大きな団体から離れて、以前から存在していた小さな団体へ戻っていく人
の両方がいるのです。
そして、その両方に共通して見えるのが、より小さく、より濃密な人間関係の中へ入っていくという動きです。
小さな団体では、一人の存在が大きくなる
人数が少なくなると、当然、一人ひとりの存在感は大きくなります。
たとえば1000人の団体では、1000人のうちの一人です。
しかし10人の団体では、10人のうちの一人です。
さらに5人しかいなければ、その一人が担う役割は非常に大きくなります。
自分の発言が注目される。
自分の意見が採用される。
自分の考えを聞いてくれる人がいる。
自分を特別な存在として扱ってくれる人がいる。
場合によっては、
「先生」
「中心人物」
「特別に教えを理解している人」
という位置まで与えられることがあります。
すると、もともと承認を強く求めていた人にとっては、小規模な集団のほうが、自分の存在価値を確認しやすい環境になる可能性があります。
中心人物の自己愛は、組織文化になる
そして、今回私が見落としていた大事な点がここです。
もし、ある宗教団体の代表者自身に強い自己愛的傾向があり、その人物の近くにいる家族や後継者にも同じような傾向が見られるとすれば、その問題を**「個人の性格」だけで終わらせることはできません。**
代表者が、
「自分こそが特別な存在である」
「自分の理解こそが正しい」
「自分を認める人こそ正しい」
という構造を作れば、周囲の人間関係も、その人物を中心として形成されていきます。
そして、長い時間をかけて、その考え方が組織の文化になっていくことがあります。
そうなると、そこから派生した団体にも、程度の差こそあれ、同じような人間関係の型が持ち込まれる可能性があります。
つまり、
代表者の自己愛
↓
組織文化への反映
↓
構成員への影響
↓
分離・派生
↓
派生した団体にも似た構造が残る
という流れです。
ここでは、単に「小さな団体だから自己愛が濃くなった」と考えるだけでは説明できません。
もともとの組織文化そのものに自己愛的な構造があり、それが分派後にも再生産されている可能性を見る必要があります。
「自分たちこそ本当のことを知っている」という感覚
さらに、分派によってできた小さな団体には、別の問題も生じることがあります。
新しい団体を作った以上、
「なぜ私たちは元の団体を離れたのか」
という説明が必要になるからです。
そのとき、
「元の団体は間違っている」
「こちらのほうが本当の教えを理解している」
「自分たちこそ本来の教えを守っている」
という自己正当化が生じることがあります。
もちろん、本当に教義上の問題があって分離する場合もあります。
したがって、分派したという事実だけで、その団体が悪いとは言えません。
しかし、そこに、
「私たちは特別だ」
「私たちだけが分かっている」
「外の人たちは分かっていない」
という感覚が強くなっていくと、個人の自己愛だけではなく、集団そのものが自己愛的になっていく可能性があります。
個人の自己愛と「集団的自己愛」は区別する必要がある
ここはとても大切です。
「ナルシスト」という言葉はアメリカなどでは日常語としてかなり広く使われています。
しかし、自己愛性人格障害(NPD)という診断と、自己愛的な傾向があることは同じではありません。
同じように、
「この団体には自己愛的な文化がある」
ということと、
「そこにいる一人ひとりが自己愛性人格障害である」
ということもまったく違います。
私がここで問題にしているのは、個人に診断名をつけることではありません。
むしろ、
承認されたいという欲求、特別扱いされたいという欲求、自分たちだけが正しいという感覚、批判を受け入れられない傾向、外部を低く評価する傾向
などが集団の中で強化されていく構造です。
そして、中心人物にその傾向が強ければ、それが組織全体の文化として残っていくことがあります。
「分離」と「元の小さな団体への回帰」は、反対の動きではない
今回、私が特に興味深いと感じているのはここです。
一見すると、
新しい団体を作ること
と、
もともとあった小さな団体へ戻ること
は、正反対の行動に見えます。
しかし、人間関係の構造として見ると、共通する部分があります。
それは、
大きな組織の中では得にくかった、自分の存在感や承認を得られる、より小さな人間関係へ移動する
ということです。
新しい団体を作る人は、自分たちの考えを中心にした新しい集団を作ることができます。
一方、元からある小さな団体へ戻る人は、すでに存在する濃密な人間関係の中へ戻ることができます。
方向は違っていても、結果として、より小さな集団の中で個人の存在が大きくなることがあります。
なぜ「小さくなるほど濃く見える」のか
私は、単純に「人数が少ないから自己愛が強くなる」とは捉えません。
むしろ、
組織が小さくなることで、自己愛的な傾向が表面化しやすくなる
と見るほうが分かりやすいのです。
大きな組織では、一人の人の自己愛が強くても、それを抑えるさまざまな仕組みがあります。
しかし小さな集団では、人間関係が直接的です。
誰が誰を評価しているのかが分かりやすい。
誰が中心なのかも分かりやすい。
誰が誰に従っているのかも分かりやすい。
そして、少人数の中で特定の人物が中心になると、その人の価値観がそのまま集団の価値観になってしまう危険があります。
その結果、個人の自己愛が集団の文化として増幅されることがあります。
さらに「選別」が起きている可能性がある
もう一つ見逃せないのが、構成員の自己選択です。
大きな団体にいる人が、全員同じように小さな団体へ移るわけではありません。
大きな組織の中で、
「この組織では自分は認められない」
「自分の考えを理解してもらえない」
「もっと自分を評価してくれる場所へ行きたい」
という思いが強い人ほど、別の小規模集団へ移る可能性があります。
そして、そのような人たちが集まれば、そこには同じような心理的傾向を持つ人が集まりやすくなります。
さらに、もともとの団体の中心人物に強い自己愛的傾向があれば、その人間関係の型そのものが、新しく作られた団体や戻っていった小さな団体にも影響を与えることがあります。
すると、
分離・回帰
↓
小規模化
↓
構成員の選別
↓
人間関係の濃密化
↓
特定の人物の影響力増大
↓
承認・特別扱いの強化
↓
集団の自己愛的な文化
という循環が生じる可能性があります。
だから「小さい団体だから悪い」のではない
ここは絶対に混同してはいけません。
小さな団体には、小さい団体の良さがあります。
人数が少ないからこそ、一人ひとりの話を丁寧に聞くことができます。
互いに支え合うこともできます。
教えを真剣に学ぶこともできます。
大きな組織ではできない活動もあります。
問題なのは規模ではありません。
その小さな人間関係が、何のために存在しているのかです。
教えを聞くためなのか。
真理を求めるためなのか。
互いに学ぶためなのか。
それとも、
自分が認められるためなのか。
ここを見なければなりません。
宗教団体を見るとき、「教義」だけでなく「人間関係」を見る
宗教団体について語るとき、どうしても教義の正しさばかりが問題になります。
しかし、実際に人が苦しむのは、教義そのものよりも、その教義を掲げている人間関係の中であることがあります。
「自分たちだけが正しい」
「あなたは分かっていない」
「私たちの言うことを聞けばよい」
「外の人間は信用できない」
「この人だけが特別に分かっている」
という関係が作られていけば、そこには宗教以前の人間心理の問題があります。
そして、その問題が小さな集団の中で濃密になれば、外から見たときには、**「この集団はなぜこんなに人間関係が濃いのだろう」**と感じることになります。
私が見ているのは「人数」ではなく、その奥にある構造
大きな団体から分離して新しい小さな団体を作ることもある。
一方で、大きな団体を離れて、もともと存在していた小さな団体へ戻ることもある。
そのどちらも、必ずしも同じ心理から起きるわけではありません。
しかし、その背景に、もともとの団体の中心人物が持つ強い自己愛的な文化があり、それが元の団体や派生した団体に程度の差こそあれ残っているとすれば、単なる「人数の問題」ではなくなります。
そして、その上で小規模な集団になると、一人ひとりの存在感がさらに大きくなり、自己愛的な傾向が表面化しやすくなることがあります。
私は、この現象を単純に、
「小さい団体だから自己愛が強い」
とは捉えません。
むしろ、
「もともとの組織文化に強い自己愛的な構造があり、その文化が分離や回帰によって別の小規模集団にも受け継がれ、さらに小さく濃密な人間関係の中で強化・増幅されて見えることがある」
と捉えています。
この視点を持つと、宗教団体の大小だけでは見えなかったものが見えてきます。
人数が何人なのかではなく、その人間関係の中で、誰が承認を求め、誰が特別な位置を占め、誰が異論を許さず、誰が他者を見下し、誰が責任を引き受けているのか。
そこを見ることが重要です。
宗教を語っていても、そこにいるのは人間です。
そして、人間である以上、自己愛も、承認欲求も、優越感も、支配欲も、謙虚さも、他者への配慮も、すべて人間関係の中に現れます。
だから私は、宗教団体を評価するとき、看板や人数だけを見るのではなく、その集団の中で、人間がどのように扱われているのかを見ることが大切だと感じます。
