宗教団体を去るという決断は、単なる組織からの脱退とは異なります。 そこには、教義への想いだけでなく、長年分かち合ってきた仲間との絆や、言いようのない温かな「愛着」が根ざしているからです。共に求道の道を歩んできたからこそ生まれる、独特の心地よさや馴れ合いは、私たちが人生の長い時間をかけて築いてきた大切な「居場所」そのものかもしれません。
しかし、その場に留まることが、必ずしも自分の求めている「真実」への道と重なるとは限りません。
自らの求道が一区切りつく信心、覚醒があったとき、
あるいは、教団や代表者が提示する世界と、自分の内側で響く声にズレを感じ始めたとき、
または、周りの構成員が回心の体験をすることに自身がご縁になることが困難であることを感じたとき、
人は深い葛藤を覚えます。
「去ることは仲間への裏切りではないか」
「これまでの縁を壊してしまうのではないか」
という思いが頭をよぎるのは、それだけその場所を大切にしてきた証拠でもあります。
でも、一度立ち止まって考えてみてほしいのです。 私たちが宗教団体に集うのは、何のためだったのでしょうか。それは誰かの期待に応えるためではなく、本来、自分自身が信心を賜るなど回心の体験をするためではなかったでしょうか。
もし、その場に居続けることが、誰かの顔色を窺うことや、ただ関係性を維持するための惰性になってしまったとしたら。そのときこそ、勇気を持って問い直すときかもしれません。
「何を求め、いま、この団体と関わっているのか」
その問いに対して、団体という枠組みから一度離れてみること。
あるいは、教団の教えを一度脇に置き、自分自身の責任において歩み出すこと。
それは決して、これまでの歩みや仲間を否定することではありません。
むしろ、団体の長や支配者からの手を離れ、自分自身の足で大地に立つという、団体からの卒業という究極の姿ではないでしょうか。
その上で、布教から離れ、自身の生活を見直す、周りの人たちに自分に合った方法で信心を伝えるなどの生き方を模索することも大事です。
どの道を選ぶにせよ、大切なのは、自分が自分の人生の主人公であり続けることです。 団体という場所から静かに身を引くことは、誰かを捨てることではなく、自分自身の残りの人生を有意義に過ごすための、尊い旅立ちです。
