今日も読者の方とお話会をしました。

日曜日のお話会では、「世間一般の問題」と「実存的な問題」を同じものとして考えていた読者の方がおられました。その話をすると、今日の読者の方も「その違いがよくわかりません」と率直に話してくださいました。

ここは、多くの方がつまずくところです。

 

仕事、人間関係、お金、健康など、世間一般の問題には、それぞれに対応する知識や技術があります。努力や経験によって改善することも少なくありません。

 

しかし、真理とのお出合い、生死の問題、死の恐怖の解決、自分とは何かという実存的な問題は、異なります。また、解決の方法も異なります。

解決の次元そのものが異なるからです。

 

お話会では、さらに真理についてもお話ししました。

真理には色も形もありません。
大きさも重さもありません。

もし色や形、大きさや重さを持つなら、それは他のものと比較できる相対的な存在です。絶対的な真理ではありません。

このことを理解すると、私たちが普段「これが真理だ」と思い込んでいる多くのものが、実は相対的な世界の出来事に過ぎないことが見えてきます。

 

私がこれまで見聞きしてきた限りでは、このことを明確に理解し、言葉として伝えられる方はごく少数でした。

宗教団体の上層部、大学の教員でも、他力信心を自身も賜り、その真理の内容を明らかに話せる人は少ないです。

その話をすると、読者の方は大変驚かれていました。

 

さらに、もう一つ驚かれたことがあります。

私は、法話や講義を職業としている方々を否定しているのではありません。

ただ、生活の糧として話をする立場である以上、その役割は「話すこと」です。

そのため、聞き手が今生、いまここで実存的な問題を解決するかどうかについては

、自分の責任ではないという立場を取る人もいます。

 

そのことをお話しすると、読者の方はとても驚いておられました。

私のお話会は、知識が増えたかどうかではありません。

今生、いまここで、他力の信心を賜り、死の恐怖がなくなり、生死の問題が本当に解決したのか。

真理が自己を通過透過した体験があったのか。

そこだけです。

 

世間一般の問題と実存的な問題を混同していたのでは、真の意味での問題は解決しません。どれほど知識を積み重ねても、他力信心を賜る体験、死の恐怖がなくなる生死の問題の解決には至りません。

だから私は、自著の記述、お話会においても、この二つを明確に分けてお伝えしています。