真理との邂逅は、年齢によって決まるものではありません。

たとえ幼い子どもであっても、親を「自分とは別の一人の人格」として受け止めることができ、自分自身の人生を歩み始めているなら、真理と向き合う準備はすでに整っていると言えるでしょう。

 

反対に、成人していても、高齢になっていても、親との心理的な分離が済まず、自分の人生の問題を親への不満だけに帰し続けるなら、真理と一個の人間として対峙することは容易ではありません。

 

近年、「毒親」や「親ガチャ」という言葉が広く使われています。もちろん、虐待や生命に関わるような深刻なケース、生まれてすぐ親に捨てられたり、極端に毎日のように心身の虐待を受ける養育環境で育った方々については、同じように語ることはできません。

 

しかし、それ以外の場合、「あれをしてくれなかった」「これが足りなかった」という思いだけに心が縛られ、自分自身と向き合うことを避け続けるなら、その視線はいつまでも親に向いたままになります。

 

親もまた、一人の未熟な人間です。

子どもを産み、育て、食べさせ、眠らせ、病気になれば看病し、それぞれの事情の中で精一杯生きています。心身の状態や経済的事情によっては、子どもの望みをすべてかなえられないこともあります。

 

親だからといって、完全無欠であることはできません。

 

真理との邂逅を願うとき、一人で対峙しないとなりません。

そのとき、親を裁き続けること、美化することは不要です。

親もまた迷いの世界を生きる一人の人間であり、それと切り離した存在であることが肝要です。

自分自身がひとりの人間として真理の前に立つ。まず、その地点に至ること。自分の人生に責任を持つこと。これこそが、他者ではなく、まさにほかならぬ自分自身を真理が通過透過し、真理にすべてまかせ、死の恐怖が解決できるスタート地点です。