近年、インターネットやテレビでもよく耳にするようになった 「毒親」や「親ガチャ」という言葉。

自分の生きづらさや苦しさを表現する言葉として、 多くの方が使っていますよね。

実際に、虐待やネグレクトなど、 深く傷つく体験をされた方も少なくありません。 その苦しみは、決して軽く考えていいものではありません。

しかし、この言葉がここまで広く使われるようになった背景には、 親子関係そのものだけではなく、 私たちの「人間の認識のあり方」も関係しているのではないかと感じています。

 親への期待は、どこから生まれるのか

「毒親」「親ガチャに外れた」という言葉の奥には、 「親は子どもを幸せにする、絶対的な存在であるべきだ」 という期待が無意識に見え隠れします。

 

もちろん、産んでこの世に送り出した以上、親には子どもを守り育てる責任があります。

しかし、その責任と、 「親は子どもである自分の人生を、全精力を傾けて満たしてくれる存在であるべきだ」 という期待とは、同じではありません。

親もまた、それぞれが自分自身の時間を必死に生き、 自らの家庭環境や価値観の中で迷いながら生きてきた、 不完全な一人の人間に過ぎないのです。

完全な親など、どこにも存在しません。

 

それにもかかわらず、「親はこうあるべきだった」という思いが強すぎると、 親を責め続けることでしか、自分の苦しさを説明できなくなっているのは、親への圧倒的な依存や期待が、 形を変えて潜んでいるのかもしれません。

「恩」と「苦しみ」は分けて考えていい

私は、虐待や深刻なネグレクト、殺人など、 人として決して許されない行為を正当化するつもりはまったくありません。 適切な保護や救済が最優先されるべきです。

 

一方で、多くの人は、この世に生を受け、 誰かの支えを受けながら成長してきました。

母親の胎内で9ヶ月間命が育まれ、この世に生まれ、 衣食住を与えられ、今日まで生きてきたという事実。

そこには、さまざまな葛藤があったとしても、 「恩」や「縁」と呼ぶべき大切な側面もあるのではないでしょうか。

「育てられて苦しかったこと」と、「生かされ、支えられてきた事実」。 この二つは、必ずしも矛盾するものではありません。 白黒つけず、両方を分けて見つめることも、時には大切なことです。

 私が親を「特別な存在」として見なかった理由

振り返ってみると、私は物心ついた頃から、 親や教師を「無条件に依存できる、甘えられるような特別な存在」 として見たことがありませんでした。

「親だから偉い、頼れる」 

「教師だから正しい、助けてくれる」 

そのようには感じていなかったのです。

 

私にとって、親も教師も、そして私自身も、 真理の前では「等しく未熟な存在」でした。

皆、それぞれに迷い、悩み、不完全さを抱えながら生きている人間。 そのように世界を見ていたため、 

「子どもだから当然こうしてもらえる」

という特権意識を持つことがありませんでした。

 

もちろん、これが正しい生き方だと主張したいわけではありません。 人によっては「冷めている」「寂しい人だ」と感じられるかもしれません。

しかし、この見方は、その後の私の人生をとても生きやすくしてくれました。

相手を理想化しないからこそ、必要以上に失望することもない。 相手を絶対視しないからこそ、自分の人生を相手に依存せずに済んだのです。

■ 真理が教えてくれること、これからの生き方

真理は、人間を「善人か悪人か」という単純な二項対立では捉えません。 そこにはもっと複雑な、割り切れない因縁があります。

真理の前に立つと、誰もが迷いの中を生きる存在であり、 誰もが未熟な存在なのです。

そのことが見えてくると、心のベクトルの向きが変わります。

「親が悪かったから私は不幸なのだ」という問い から

「自分自身が主人公のこの人生を、どう自分の責任で生きるのか」という問いへの転換

 

親を責め続けるエネルギーをそっと手放し、 自らの人生を主人公である自分で責任を引き受けて歩み始めること。 そこに、人としての本当の自立があるのではないでしょうか。

■ おわりに

「毒親」や「親ガチャ」という言葉は、 現代社会の生きづらさを映し出す鏡のようなものです。しかし、その言葉に依存しているだけでは、 人は本当の意味で苦しみから自由になることはできません。

 

親も子も、真理の前では皆、迷いを抱えた未熟な存在。

その事実を受け入れたとき、 他者への執着や過度な期待は、意味を持たなくなります。

「誰のせいか」

を問い続ける他責、他人中心の人生から、 

「私は自身の人生をどのように責任をもって生きるのか」

へと、こころが転換した時。 初めて私たちは、自分自身の人生の主人公になれるのではないでしょうか。

 

私は、この視座の転換こそが、苦しみを超えていくための大切な一歩であり、 真理が私たちに示している豊かな世界であると、日々味わって生きています。