現代ほど、仏法の話を簡単に聞ける時代はありません。

インターネットを開けば、全国各地の法話が無料で聞けます。

AIに質問すれば、仏教の教えについても、瞬時に整理された答えが返ってきます。

本当に便利な時代になりました。

 

しかし、どれだけ熱心にAIも含めた法話をあちこちで聞き歩いても(私はこれを「聴聞ホッピング」と呼んでいます)、どれだけAIと質疑応答を重ねても、それだけで他力手放しの信心へ至ることは非常に困難です。

AIは死なない存在です。ですから、死を目前にした人間の苦しみや、生死の問題が本当に解決するとはどういうことかを、自らの体験として知ることはありません。

しかし、それだけが理由ではないのです。


主導権を握ったままでは、自力を離れられない

他力手放しの信心とは、自分の思い通りにしようとする心が破られ、「もうお手上げです」となるところから始まります。

ところが、聴聞ホッピングやAIとのやり取りでは、最後まで自分が主導権を握ることができます。

法話なら、

「この先生は合わない。」

と思えば次へ行けばいい。

AIなら、

「その答えは違う。」

「別の言い方で。」

と、自分の納得できる答えが返ってくるまで質問を続けられます。

時間もお金もほとんどかかりません。

一見、仏法を求めているように見えますが、実は「自分の思い通り」を補強しているだけになってしまうことがあります。

それは現代のタイパ・コスパを重視する時代らしい求め方ともいえるでしょう。


「わかったつもり」という化城の安楽椅子

人は少し教えが分かると、

「なるほど。」

「理解できた。」

と思います。

しかし、それが実は途中の休憩所(化城)だったということがあります。

そこに腰を下ろし、「もうここで十分」と安心してしまう。

私はこれを「化城の安楽椅子」と呼んでいます。

ところが、本当の聞法は、その安楽椅子を何度も壊される歩みです。

「分かったつもり」

「納得したつもり」

「これでいいと思っていた自分」

が崩され、自分の力では疑情を晴らすことはできなかったと知らされます。

知識を増やすことは、この体験とは全く別なのです。


博士論文にも、伴走する先生がいます

大学院の博士課程だけで9年間在学しました。

博士論文は、本を読んだだけでは完成しません。

ほとんどの人は、一人の指導教員に長年伴走していただきます。

論文の書き方だけではありません。

研究が行き詰まった時。

査読で不採択になった時。

事務手続きで困った時。

その都度相談しながら、一歩一歩進んでいきます。

自分一人で査読論文を何本も通し、学会発表をこなし、最短の三年で修了できる人は、ごく稀です。

他力信心を求める歩みにも、重なるところがあります。

細切れの知識を集めるだけでは、自分の力では越えられない壁にぶつかった時、そこから先へ進むことが難しいのです。


信後の方との対話が大切な理由

多くの方は、信後の方との対話を通して歩みます。

なぜなら、その方自身が、自力から他力への過程を通ってこられたからです。

その過程は、実際に通った人でなければ分からないことがあります。自身も博士学位を取得済みの大学教員もその過程を通っているように。

 

AIには、それがありません。

どれほど知識があっても、自らその道を歩んだ経験はありません。

だから、多くの人にとっては、信後の方との生身の対話が大切になるのです。

もちろん例外もあります。

法然聖人は、善導大師のお言葉によって大きな転換を迎えられました。

しかし、その法然聖人でさえ、幼少の頃から師について比叡山などで長年修行を重ね、四十代に至るまで深い求道の歩みを続けておられました。

そのようなご縁は、決して一般的とはいえません。


どのような方に伴走していただくか

私は、伴走していただく方には二つの条件が大切だと考えています。

一つは、自分以外の複数の方が他力信心を賜る場面に立ち会ってこられた方であることです。

ご自身だけの体験ではなく、多くの方が迷い、苦しみ、救われていく歩みを見届けてきた方は、一人ひとりに応じて寄り添うことができます。

もう一つは、教学をある程度身につけておられることです。

体験だけではなく、お聖教に照らして導くことができる方であれば、迷った時にも正しい方向へ戻る助けになります。


六連島のおかる同行に学ぶこと

江戸時代の妙好人、六連島のおかる同行も、多くの善知識を訪ね歩かれました。

しかし、それは今でいう「ホッピング」とは全く違います。

知識を集めるためではありませんでした。

「いまここで、生死の問題を解決したい。」

その一心だったのです。

だから、おかる同行は、どの善知識の前でも、自分を空にして聞かれました。

「分かったつもり」の安楽椅子を壊されることを恐れず、一言一言を、自分一人への呼びかけとして受け止めていかれたのです。


おわりに

他力手放しの信心とは、

「私が仏法を選ぶ」

ことではありません。

仏法によって、

「私自身が照らされ、暴かれ、救われていく」

という世界です。

私自身、そのような切実な思いで聞きに来てくださる方とのご縁を、この上なく有難く、尊く感じています。

だから、ただ「三界の大導師」である仏法の前に立つという自覚を持って、信心の沙汰に向き合ってきました。

 

何かに折り合いをつける必要はありません。

自分を空にし、心の頭を垂れ、信頼できる先達と対話を重ねながら、真実に気づくところまで歩んでいく。

その歩みを経てこそ、自力の計らいを離れた他力信心を賜ることは、多くの人にとって可能になります。