ある法座で聞いた話に強い憤りを感じました。
その布教使の方は、ご自身の祖父が臨終の数日前に、
「親鸞さま、ご先祖さまと同じお浄土に生まれられるかどうか不安だ」
と語られたことを紹介されました。
そして、その話を受けて『歎異鈔』第九章を引用し、
「親鸞聖人も同じようなことをおっしゃっているのだから大丈夫だ」
という趣旨の話をされたのです。
しかし私は思いました。
それで本当にいいのでしょうか。
もし臨終を目前にした人が、
「お浄土に生まれられるだろうか」
と不安を抱えているなら、本来問われるべきなのは、
「親鸞聖人もそうだったから大丈夫」
ではありません。
「その不安は解決しているのか」
です。
そこをごまかしてはいけません。
私は以前から、現代の『歎異抄』解釈には大きな問題があると感じています。
『歎異抄』を持ち出して、
「不安があってもいい」
「疑いがあってもいい」
「死が怖くてもいい」
という結論へ導いてしまう話をたびたび耳にします。
しかし、それは本当に親鸞聖人が伝えようとされたことなのでしょうか。
私はそうは思いません。
なぜなら、そのような解釈の先には、
「後生の一大事の解決」
という真宗の根本課題が見えなくなってしまうからです。
そもそも、多くの人が宗教を求めるのはなぜでしょうか。
元気な時には考えないかもしれません。
しかし、病気になった時。
家族を失った時。
余命を告げられた時。
あるいは何の病気もなく元気に暮らしていても、ふと夜中に目が覚めて、
「いま死んだらどうなるのだろう」
と考えた時。
人は根源的な不安に直面します。
終末期医療の現場でも、ホスピスでも、ビハーラ活動でも、そのような不安と向き合う場面は少なくありません。そこで大切にされているのは、寄り添いであり、傾聴であり、スピリチュアルケアです。それらはもちろん尊い営みです。
しかし私は、あえて問いかけたいのです。
私たちはいつから、
「死の恐怖は解決できないものだ」
という前提で話をするようになったのでしょうか。
死の恐怖と共に生きる。
死を受容する。
死に寄り添う。
そうした言葉はよく聞きます。
でも、死の恐怖そのものが解決する。
という話はほとんど聞かなくなりました。
私はそこに大きな疑問を感じています。
なぜなら、私はその世界があることを知らされたからです。
そして、その世界に出遇ってから十八年になります。
だからこそ不思議なのです。
なぜ誰も求めないのか。
なぜ誰も聞こうとしないのか。
なぜ、
「死の恐怖とどう付き合うか」
には関心を持つのに、
「死の恐怖そのものが解決する」
という話には耳を傾けないのか。
おそらく、死の恐怖の解決ができると明言し、その過程を明らかにする人に出合うったことがないからでしょうか。
そんな世界があるとは、初めから全く思っていないのでしょうか。
それとも、解決するはずがないと諦めているのでしょうか。
私は十八年間、ほぼ毎日のように伝え続けてきました。
いまここで、真理との邂逅ができること。
後生の一大事は解決すること。
死の恐怖はなくなること。
生死を超える世界があること。
繰り返します。それは死ぬ時の話ではありません。
いま、この場所での話です。
いま生きているこの瞬間に、たとえ臨終であっても、決着がつく問題です。
だから私は、終末期医療に携わる方々にも、ビハーラ活動に関わる方々にも、そして「いま死んだらどうなるのだろう」と不安を抱えている方にも問いかけたいのです。
本当に必要なのは、
死の恐怖を抱えたまま生きる方法でしょうか。
それとも、
死の恐怖そのものが解決する道でしょうか。
私は後者こそが問われるべきだと思っています。
『歎異抄』を利用して、
「不安があってもいい」
「疑いがあってもいい」
という話にしてしまうなら、それは本来向き合うべき問題から目をそらすことになりかねません。
問われるべきは、
不安があってもよいかどうかではありません。
「いま死んだらどうなるのか」という恐怖に、本当に決着がついているのか。
その一点なのです。
そして、その問いに対する答えは、死の床ではなく、今生のいまここにあるのです。
