長い間、不思議に感じ続けていることがあります。
それは、「自分自身も生死の問題に苦しみ、長い間求め続け、ようやく他力に触れた。そして今度は、自分のように苦しむ人に何とか伝えたい」と願う人に、ほとんど逢えなかったことです。
私の所には、これまで様々な方が来られました。
真宗の教えを聞いて他力に入った方。
他宗教を通して深い体験をされた方。
無宗教のまま、ある瞬間に世界の見え方が変わった方。
また、たまたま少し話をしただけで、すぐに他力に入ったように見えた方もあります。
逆に、既に他力信心のような状態にありながら、「自分に何が起きているのか分からなかった」という方もおられました。そのような方々と出会うと、真理そのものは、宗派や形式だけに閉じ込められるものではないのだと感じます。
しかし同時に、私はどうしても別のことを感じてしまうのです。
それは、多くの方が、「自分が助かった」というところで止まってしまう、ということです。
もちろん、それが悪いと言いたいのではありません。本当に苦しみ抜いた人ほど、「やっと楽になった」「もう十分だ」という安堵に包まれるのは自然なことでもあるのでしょう。
しかし私は、その先をどうしても考えてしまいます。
かつての自分のように、
死の恐怖に苦しみ、
生きる意味を見失い、
後生の問題に悩み、
人間の力では超えられない壁の前で立ち尽くしている人が、現実に今もいる。その人たちに、この道をどうしたら伝えられるのか。どうしたら、単なる知識や宗教理解ではなく、「本当に世界が転換する」というところまで届くのか。どうしたら、人間の力では超えられない問題を超えていけるのか。私は、そればかり考えてきました。
だから逆に、「自分も同じように苦しみながら求め、今度は他の人に伝えたいと悩み続けている人」に、いま現在、ほとんど出会えないことが、とても不思議なのです。
そして、正直に言えば、悲しくもあります。
私は博士論文を書く過程で、多くの実例を調べました。
妙好人。
結核患者。
戦犯。
ターミナルの方々。
そういう、生死を真正面から見つめざるを得なかった人々です。
もちろん、過去の実例を知ることは励みになります。
「過去にも、同じように苦しみ、求め、真理に触れた人々がいたのだ」と分かるからです。
しかし同時に、現代で、その温度感を共有できる人にほとんどで逢えていないことが、私にはとても残念なのです。
妙好人についても、いまだに「全員が本当に他力信心を賜っていたのだろうか」と感じることがあります。それは、妙好人を否定したいのではありません。私自身が、「本当に転換が起きたのか」ということを、とても重く見ているからです。
念仏を称えているとか、宗教活動をしているとか、そういうことだけではなく、
本当に後生に驚きが立ったのか。
本当に人間の力が破れたのか。
本当に世界の見え方が変わったのか。
そこを私は見てしまう。
このような理由から、「自分も苦しみながら求め、今度は人に伝えたい」と切実に願う人に出会えないことが、なおさら不思議なのです。
真宗による他力の救いは、真理へ至る大切なルートの一つだと感じています。
これは、単なる教学研究から言っているのではありません。実際に多くの方と出会い、自分自身も長い間求め続けてきた中で、敢えてそう言います。
もちろん、真理そのものは宗派を超えて働くことがあります。
私の所に来られた方々の中にも、他宗教や無宗教のまま深い体験に触れた方がおられました。
しかし同時に、私は強く感じています。「教え」という地図がなければ、その体験はその人一代で終わってしまいやすい、と。
自分に何が起きたのか。
なぜ助かったのか。
なぜ世界の見え方が変わったのか。
それを言葉にし、後の人へ伝えていくことは非常に難しい。
だから私は、釈尊や高僧方、法然聖人、親鸞聖人、蓮如上人の残された教えを、単なる思想や理論とは感じていません。すべて、自ら通られた道の言葉なのではないか、と感じています。
人間の言葉では説明しきれないものを、それでも何とか他の人に伝えようとして、命を削るように言葉を尽くされた。だから、何百年経っても人の心を打つのでしょう。
私も、微力ながら、その身後に続いているだけです。ただ、現代は昔とは時代が違います。
今の人は、単に教義を聞くだけでは、生死の問題を自分自身のこととして感じにくい時代になっています。だから私は、
・ゲーム
・VR
・ワークショップ
・シミュレーション
なども取り入れながら、「体験として真理に触れる道」を模索しています。
新しい真理など作れません。すでに真理は私たちの周りに充満しているのですから。それにきづく方法を模索しているに過ぎません。ただ単に、昔から受け継がれてきたものを、現代の人にも届く形で伝えたいだけです。
