私はこれまで、「信心の沙汰」をする中で、日常の悩みを解決する方法を、ほとんど話してきませんでした。
人間関係をどうするか。
仕事をどうするか。
心を楽にするにはどう考えればいいか。
そういうことについて、積極的に助言することは、ほとんどありません。
冷たいと思われることもあるかもしれません。
しかし、それには理由があります。
「今生の苦悩を軽くすること」と、「生死を超えること」は、まったく別の問題だと私は信知しているからです。
西光義敞さんが提唱された「真宗カウンセリング」という流れがあります。
そこには、苦しむ人に寄り添い、受容し、その人が少しでも生きやすくなるよう支えていこうという、大切な働きがあります。 現代人に仏教を開こうとした意味も、大きいのではないでしょうか。
しかし、私が長年向き合ってきた「信心の沙汰」は、それとは目的が異なります。
真宗カウンセリングは、苦悩の整理や軽減、人間としてより良く生きることに重点があります。
けれど、私が向き合ってきたのは、
「本当に迷いを抜けられるのか」
「死を超えられるのか」
「阿弥陀如来を疑う心が晴れない」
「他力とは本当に事実なのか」
という、生死そのものの問題です。
そして、日常の人生苦の多くは、
名誉を求める心、
認められたい心、
執着、
欲望、
人間関係への囚われなど、煩悩による「名利」によって引き起こされる苦悩です。
もちろん、それは本人にとっての日常に惹起する苦悩は非常につらいものです。しかし私は、その苦しみを何とか軽減することを第一にはしていません。
なぜなら、人は苦しみが少し和らぐと、
「この世で何とかやっていける」
「まだ大丈夫だ」
「今のままでも生きていける」
という方向へ戻ってしまうことがあるからです。
すると、本当に迷いを離れたいという切実さが弱まり、かえって今生で信心を賜ることが遅れたり、場合によっては、そのまま真理に出遇えなくなることさえありえます。
私はそこを、とても恐れています。だから、私は、苦悩を取り除く話よりも、
「この迷いの世界では根本解決にならない」
「もう二度と六道輪廻に戻りたくない」
「今生のいまここで、生死を超える道に出遇いたい」
という方向へ、人が押し出されていくことの方を重く見ています。煩悩によって起こる苦悩は、確かにつらいものです。
しかし、その苦悩が、
「この世の苦しみだけでは終わらないきがする」
「本当に生死を超える道を知りたい」
「もう二度と迷いの世界に戻りたくない」
という求めにつながることがあります
だから私は、苦しみを消すことよりも、その苦しみを抱えたまま、真理が通過・透過していく過程を話してきました。
信心の沙汰とは、人生相談ではありません。
煩悩を整理することでも、生き方の技術を教えることでもありません。
真理(阿弥陀如来)とのお出遇いによって、
今生のいまここで、迷いを超える道が本当にあることを、すでに信心を賜った人と共に確かめていく話です。こんな理由から、私は、信心を賜る過程に関わること以外は、ほとんど話しません。分からないことは、分からないと答えます。
無理に慰めたり、人間の知恵で答えを作ったり、
「こうすれば楽になります」と簡単に言ったりはしません。
真理そのものの働きを、私の計らいで邪魔したくないからです。
これまで私の所に来られた有縁の方々も、多くは日常的な悩みの解決を求めてではありませんでした。
「真理を疑う心をどうしたらいいのか」
「本当に他力とは事実なのか」
「このままでは生死を超えられない」
そういう、もっと根本的な苦悩を抱えた、尊い方々でした。
以上が、私は信心の沙汰と、一般のカウンセリングや真宗カウンセリングは一線を画すべきと理由です。
