「各地の法座を回り、有名な先生のお話を聞き、知識を積み重ねる……」 一見すると、非常に熱心な聞法(もんぽう)の姿に見えるかもしれません。

しかし、もしその目的が「自分の理解を深めて満足すること」や「自分に都合の良い言葉を集めること」になってしまっているとしたら、それは真理から最も遠い、虚しい空回りです。

今日は、宗教の世界でよく見られる「聴聞ホッピング」という危うい姿勢について、お話ししたいと思います。

■ 自我を満足させる「つまみ食い」の罠

高い交通費をかけて全国を回り、多くの先生の言葉をコレクションする。それは「真理を求めている」ようでいて、実は「自分の自我を心地よくしてくれる言葉」だけを、得手勝手につまみ食いしているに過ぎないことがあります。

真実の言葉とは、本来、私たちの「我執」や「自惚れ」を根底から剥ぎ取っていくものです。しかし、ホッピングを繰り返す人は、自分を砕いてくれるような「痛い言葉」を無意識に避け、自分の正しさを補強してくれる言葉ばかりを拾い集めてしまいます。

■ 信心を「マウント」の道具にする「慢心」

「あの先生はこう言っていた」「あそこのお寺ではこう教わった」 そうやって手に入れた知識を武器にして、他人の信心を「自力だ」「化城だ」と判定し、マウントを取る。これは、他力信心から最も遠い振る舞いです。

真宗の目的は、ただ一つ。自分自身の「疑情」が晴れること。 それなのに、人の粗を探して優越感に浸っているのは、阿弥陀仏の光を浴びているのではなく、自分の「慢心」という厚い壁の中に閉じこもっている姿に他なりません。

■ 本当の聴聞とは、自分自身の「闇」を知らされること

有名な先生の権威を借りて「分かったつもり」になっても、あなたの死の問題は一ミリも解決しません。

本当の聴聞とは、自分を心地よくさせる「有り難いお話」を聞くことではなく、自分の力ではどうすることもできない「闇」を、真正面から突きつけられることです。時には何年もかけて紡がれた厳格な研究書や先達の言葉の中に逃げ場のない場所で対峙し、自分の計らいが一切通じないことを知らされる。 その「自惚れが剥がされる」プロセスを飛び越えて、レジャーのように法座をハシゴしても、主体が転換する「回心」は訪れないのです。

■ 最後に

「あなたの博士論文、著書を読んだ」と言いながら、実は自分のプライドを守るために表面上をさらっと中身を歪めて受け取っていた。そんな不誠実な出来事に、私は先日遭遇しました。

真理は、誰かを判定するための道具ではありません。 あちこちを彷徨うのをやめ、今、あなたの足下にある一歩に全神経を集中させてください。 「自分の疑いが終わったか、否か。自分の我執は砕かれたか」

誰かを裁くための知識を増やすのではなく、自分という存在が粉々に砕かれ、ただ光の中に投げ出されるような、そんな「真実」との出合いを目指すように念じます。