依存的な存在である成人または子どもの身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組みのもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係(上野2015:42)

 

「信仰」を持たない人や持ちたくない人が、「信仰」の助けを借りずに回復しようとすることは不可能ではない。が、難しさはますものだ。信仰を持たずに回復しようとするには、ハイヒールをはいて後ろ向きに急な坂道を登るようなものである。それでも目的地まで、行けるかもしれないが、もっと速くて効率のいい、苦痛の少ない行きかたもあるのだ(中略)私たちは私たちの「神」をひとりで、黙って見つけるしかないのだ。」

(ノーウッド1991:38-9)

 

家族や身近な人に先立たれた喪失の悲しみに対して、通常の悲嘆と病的な悲嘆の二種類の

反応に分け、通常の悲嘆反応は成人においては、身体的症状、知覚的症状、情緒的症状、行

動的症状の四つの症状に(柏木2006:87-91)病的な悲嘆は慢性化した悲嘆、遅延した悲嘆、

誇張された悲嘆、仮面悲嘆という症状に分類した。(柏木2006:96-107)病的悲嘆を生み出

しやすいのは死別のタイプ、故人との関係、パーソナリティ、過去の病歴、社会的支援など

によるとした。(柏木2006:108-115)

 

マインドフルネスの経典からは、個々の経験がつねに移ろいゆくものであり、それに気づくことによって、経験のありのままの流れ(生成消滅)が開放されるということも読み取れる。私たちは通常、気づくのではなく反対に執着することによって、個々の経験を保持しようとする。しかし、あらゆるものは推移していくので、それは本来不可能なことであり、執着を手放して、経験の流れに身をまかせるしかない。どんな経験も、かぎりなく貴重なものであるが、それは執着の対象ではなく、気づきの対象となるべきなのである。マインドフルネスのレッスンには、微細な経験の流れに気づくことによって執着の結び目をゆるめ、ほどいていく働きがある。(中川2007:112-113)

 

仏教が自己という病を根治する究極の治療であるとすれば、心理療法はその途中までし

か行かないのである。それゆえ、それはある段階から仏教のアプローチによって引き継がなくてはならない。自己愛の根源を洞察し、無自己性の智慧を深めることが、自己愛に由来するあらゆる問題の解決となる。これが仏教にもとづく究極の心理療法である。(中川2007:202) 

 

過去久遠のむかし世自在王仏のもとで、無常なるさとりを得ようとした法蔵菩薩(法蔵比

丘)が衆生を救済するために四十八の本願を立て、途方もなく長い間修行を重ねた後、本

願を成就して今から十劫のむかしに仏となった。この仏は阿弥陀となづけられ(中村1989:13-14)

  法蔵菩薩ははじめから仏ではなかった。仏道を歩いていた僧でもありません。『無量寿経』によると国王です。お釈迦様の出自に似ています。彼は王として物欲、権力欲のあらゆるものをほしいままにしていた。ところが世自在王仏の説法を聴いて、心に今まで知らなかった深い喜びを持ち、王位と国を捨てて修行者となった。この人間の現実世界の欲望の中で生きるのに愛想をつかしてしまう。何か分らぬが、自身の一番深い所から込み上げてくる衝動、その根本の願いは、いままで自分がやっていた生活では満足させられないことがわかったのです。そこで世自在王仏のところへ行って、自分の心の中の願いを述べ、その願いの成就を誓い、さらにその方法を世自在王仏と問答を通して発見していく。そして阿弥陀仏という仏になった。『無量寿経』はそのことを物語ふうに説いていますが、もちろん昔の物語ではありません。人間存在の底に今も起こる永遠なる霊性の出来事を言うのであります。(大峯1990:66-67)

 

噫、弘誓の強縁は多生にも値ひ叵く、眞實の浄信は億劫にも獲叵し。遏行信を獲ば遠く宿縁を慶べ。若し也廻疑網に覆蔽せられなば、更りて復曠劫を逕歴せん。(4)(親鸞:266)

 

仏教の根本は、人間がこの世の中をどうやって生きていくかという、そういう問題ではありません。いかにして生死を超えるかという問題です。この世をいかに生きるかという、そんな問題ではない。生まれたり死んだり、死んだり生まれたりして、無限の宇宙の中にあって、始めも終りもなくするこの自己存在というものの絶望的な現実をどうやって救うか。これが仏教の根本問題なのです。生死出づべき道の探究です。これは、時間空間の中にいるんだけれども、時間空間の中では解決できない、自己の問題の解決ですね。 それを哲学の言葉で超越というのですが、超越に向かう視線を失って、ただ水平面だけに向かって、社会の方だけに目が注がれていく、そういうことだったら、これは仏教でもないし、浄土真宗でもない。本当の宗教でもないと、私は思います。(大峯1999:21)

 

「『後生の一大事』を心にかけて」と題した説法(5)である。

大峯顯師法話「後生の一大事」を心にかけて (youtube.com)

 

本書は、いわゆる宗教概論でもなければ、宗教入門書でもない。本書は讀者をいきなり、宗教の核心へ連れてゆこうとする。人間の内面から宗教というものが生起してくる現場に、自分自身が立ち合うという仕方での宗教理解が、先生の根本方法である。(西谷1987:318)

 

「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるものである」(西光2005:287)とする。

 

日常の生活の言葉、学問的認識の言葉、宗教的言語(大峯1990:136-153)

 

普通の信仰の書というのは、読んでいるうちに、良いことが書いてある、ありがたい言葉が書いてある、このような言葉は好きだなと、読めば読むほど心の滋養になる、そういう感じでしょう。つまり自分の心に副うものは、ああこれは面白い、ありがたいと受け取るという感じで、「ありがたや」を育てる本が多いと思うのです。でもこの本は違った。それは自分のもっているもの、慶んでいるもの、そういうものを次から次へもぎとっていくような気持ちの悪い本だったのです。何でもない在家のお婆ちゃんが、「あんたの心の中には説教師が住んでいませんか。これでよろしいでしょうか、それで良い、それで良い、という対話をくり返していませんか。これで私の信心は良いのでしょうか。否、そのまま、そのまま、それが他力だよ、というような問答を心の中でくり返していませんか。そのような信仰は浄土真宗の信心でも何でもない、それを自力というのだ」と語る場面がでてきます。(西光2004 :26)

 

かなり古くからの神秘主義的な宗教家は伝統的な儀礼や知的な教義に究極的な真理は見いだせず、言葉では表現することができない。聖なるものとの不思議な出会いや神や仏との合一の体験の中にこそ、信仰者が求めるべき最終的目標があると彼らは考えたとしている。(島薗1992 :10)

 

伝統的儀礼や知的な教義ではなく、浄土真宗の在家信者である妙好人讃岐の庄松、浅原才市の言動を鈴木大拙は記録したと紹介し、島薗は宗教学者として、体験の宗教をここでは紹介している。(島薗 1992 :14-18)

仏教・真宗は生を生死としてとらえ、自覚による生死超越の次元、すなわち仏の次元、出世間の次元を明らかに見とどけ、しかも、世間と出世間、人間と仏の関係を正しくとらえている。カウンセリングに即して言えば、「真宗カウンセリング」は構造的には、カウンセラー対クライエントという人と人との関係と人間の次元を超越して人間を支える仏と人との二重の関係上に成り立つ。実践的には対人的心理的配慮と共に、「人・仏」関係にもとづく霊性的配慮という二重の配慮にもとづいている。この二重の配慮に「真宗カウンセリング」の独自性がある。ロジャースの援助的人間関係を超えた深い次元から根拠づけるとともに、矛盾にみちた人間性からあらわれる複雑な人間関係問題に挑む力を、親鸞の深い人間洞察からひき出すことを「真宗カウンセリング」の現代における独自の使命であるとしている。(西光2005 :261-262)

 

従来のカウンセリングについては、自己成長、自己実現などのカウンセリングや心理療法の目標を示す概念が、いずれも単純肯定された生の枠内での連続概念にとどまり、生は死という否定的契機を含む生を実相とし、死を見ようとしない。死を掩った生の枠内での成長、発達、幸福、健康は、きびしく言えば、人間の根源的な幻想迷妄であり、その迷妄に目覚めるところまで視野に入れたカウンセリングや心理療法はまだないと考えている(西光 2005 :260)

 

「謹んで淨土眞宗を按ずるに、二種の廻向有り。一つには往相、二つには還相なり」(親鸞:267)

 

気持ちが沈んでいるときは「やさしい」親身になって話を聴いてくれる先生に聞いてほしいのである。」(西平2017:1-2)

 

上野千鶴子2015年『ケアの社会学』太田出版

大峯顯2021年『今日の宗教の可能性』百華苑

大峯顯1990年『親鸞のコスモロジー』法蔵館

柏木哲夫2006年『人生の実力』幻冬舎

西光義敞2004年『わが信心 わが仏道』法蔵館

西光義敞2005年『育ち合う人間関係』本願寺出版社

島薗進・脇本平也・柳川啓一1992年『現代宗教学2宗教思想と言葉』東京大学出版

重松清2009年『十字架』講談社

親鸞『教行信証』1935年『真宗聖典』法蔵館

中村元(編集)1989年『岩波仏教辞典』岩波書店

西谷啓治1987年『西谷啓治著作集 第10巻 宗教とは何か』創文社

西平直・中川吉晴(編集)2017年『ケアの根源を求めて』晃洋書房 

中川吉晴2007年『気づきのホリスティック・アプローチ』駿河台出版社

蓮如『御文』1935年『真宗聖典』法蔵館

ロビン・ノーウッド 落合恵子訳1988年『愛しすぎる女たちからの手紙』読売新聞社