2021年
いのちを粗末にしてはいけません。生死の問題は、同調圧力や他人のために決断してはなりません。熟慮の結果、何だか気が進まなくなれば止めても報告も要りません。その決断を心ある人は尊重してくれます。自分のいのちを大切にできない人が他人を救えるはずがありません。

薬害がこんなに広がっているのですから、異物混入ロットの回収はもちろん、治験は中断すべきというひとたちの声が消されるのはなぜ?未成年への治験は即刻中止です!

治験開始後、ご近所さんの家の前に救急車が止まった、祖父母ばかりでなく両親も他界した。失明した、全身まひで動けない。こんな話を周りで頻繁に聞くのに、なぜ治験中止を訴えないどころか、積極的に治験に協力し、推進するのか理解不能です。もう千人以上の人が死んでいます。

今現在、薬のために死の淵に進みゆく人たちのための解毒や宗教的な救済をすることを速急にしていかないとなりません。まず、治験の中止、そして解毒、今死んでも安心満足の境地に至る話を医師、研究者、宗教者は取り掛かる時が来ています。治験推進でなく、中止要請です!
過去のこの日

いのちとはそんなに軽いもなの?千人の人が死に、重度障碍者もこれほど多く出ている薬は即刻中止すべし!これ以上被害者を出すな!食品や車などいのちに関わる不具合と同様に!取得証明等推進する政治家は落選させよ!

自分の頭で考えなさい!。治験はまだ終わらないのに、医療の専門家でもないのに自身数カ月以内の体験談を誇らしげに語り、他人にも勧めるのは止めなさい!治験効果や死亡は数年のスパンで判明します。治験前の摂取証明をマスコミと共に個人も片棒を担いでどうするんですか?

薬を自ら摂取したとか、周りに勧めるアイコン表示は止めませんか。まだ治験中で身体やその他の理由で受け入れられない人たちも多いです。もし治験中の薬で将来、誰かが死んだり、重度の心身障害者になったら責任取れますか?

2020年
感染症患者を治療する医療現場の関係者にお尋ねしたいことがあります。結核や感染症に関わっている医療関係者の方々は病棟や診察室において、コロナ騒動以前から常にマスクをしていたのでしょうか。無菌室などにいる患者に見舞いする人が自身の病気を患者に移さないためにマスクをするのは聞いたことがあります。それは見舞客が患者から病気がうつらないためではありませんでした。
 コロナ禍から現在に至るまで医師や看護婦は結核患者を診察するときマスクは必須なのでしょうか。マスクの穴を結核菌は通ってしまいますよね。
 外科手術でマスクをするのは医師や看護師の汗や唾液が入らないように、また患者の血液や体液が飛び散って、手術の邪魔にならないようにと聞きました。
 ここらへんを一般の人たちに説明していただけると、現在のマスク警察から不快な態度を取られることは緩和できる気がします。法的な根拠が一番人々の行動を変えさせますので、コロナを子弟感染症から外し、2類から5類に扱いを変えるのを急がないとなりませんが。

症状が出ていない人たちに対する不必要なPCR検査や加えて重大な副作用が予測される予防ワクチンを専門家の意見を無視して強要しようとする人たちって利権がらみ以外考えられないと思うのは私だけでしょうか?
大谷高校で学び、東京仏教学院で加茂さんの講義を受けた方の話です。「本願寺派には信心、領解の核があることを信知しました。信心が説かれない、一般の人がわからない教えではダメです。私は加茂さんの同じ話を毎回よろこんで聞きましたが、他の学生はうんざりしていました」。

組織で活動するときに一番気を付けなくてはならないのは、トップに立つ者を超える人は出てこないことだ。組織内の優れた人は外に出て行き、組織外の人は入ってこないということ。
釈尊は瞑想の師から離れたが、成仏後臨終まで教えを求め多くの人が彼を慕い集まってきた。

2018年
「無明の闇と光明の共存 絶対矛盾的自己同一的捉え方」
 この世の考え方からいけば、光が来たとき闇が去ります。闇が消え光の差す状態へと変化します。闇と光が同時に存在することなど考えにも及びません。ところが、真理との邂逅を比喩的に表現すると、まず、闇の全貌が現れたその時、同時に光も存在します。完全に自分の力が間に合わないと知らされた時、そんなものを救うという光が届き、安寧の内に救われます。
 まだ、無明の闇が信知されない時は、もちろん光の存在も分からないのです。だから、突然、無明の闇と光明が同時に現れ、それが矛盾なく存在することは人間の知恵では決して理解できないものです。
 助からない自分と助かった自分が共存する心境は本当に不思議なものです。真理との邂逅を別の言葉でいうと、回心の体験ともいえますが、この状態は体験した人にしか分かりません。これは心の状態なので視覚的なものではないので、そこの理解は体験がある人にしか何とも理解しがたいです。
 ただ、御仏の救いが有難いとよろこんでいるのではなく、自身は金輪際救われる縁手掛かりがなかったのだということを同時に知らされることを浄土真宗では二種深心と言います。この両方が知らされた時が無明の闇と光明が両方ともはっきりするときです。
感謝していること
 論文を書くために、仏教の論文や書籍を拝読していますが、このような救いの要を誤魔化さず書かれている物に出合うと、私にも、真理との邂逅が別の角度から分かり易く書けるのではないかというよろこびが出てきます。