説法原稿
2019年10月28日
讃題
浄土和讃 冠頭讃
弥陀の名号となへつつ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
佛恩報ずるおもひあり
誓願不思議をうたがひて
御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳
むなしくすぐとぞときたまふ
時の過ぎ去るのは早いもので、あれほど暑かった夏も過ぎ去り、丁度良い気候の秋は短く終り、もう冬支度をする季節になりました。毎日、だんだん暗くなる時間が早まり、木枯らしが吹く街を歩きながら、ふと寂しさを感じます。寒さが身に沁みる今日この頃ですが、みなさま、ようこそのお運びでございます。今日は親鸞聖人の浄土和讃を通して阿弥陀佛の御心をお伝えいたします。どうぞよろしくお願いいたします。
ご讃題では親鸞聖人の浄土和讃の冠頭讃をご紹介させていただきました。
皆さんの中には、よくご存知の方もいらっしゃるでしょうが、和讃というのは漢文の表記ではなく、仮名混じりの和語をもって讃嘆する詩という意味です。親鸞聖人は当時、流行っていた今様形式の和讃を五百首以上お詠みになりました。特にその中で『浄土和讃』、『高僧和讃』、『正像末和讃』をこの三つをまとめて『三帖和讃』と言われています。
今日お話しさせていただく『浄土和讃』は、阿弥陀如来とその浄土の徳について経典などを引用しながら讃嘆したものです。ここで取り上げております「冠頭讃」二首、「讃阿弥陀佛偈讃」四十八首等、合計百十八首からなっています。「讃阿弥陀佛偈讃」は山本先生の講義で詳しくお話しいただいたので、皆さんの記憶に新しいことと存じます。はじめの六首は、「正信念佛偈」のあとに私たちが朝夕読誦する和讃ですので、特に親しみを感じてらっしゃることでしょう。
「冠頭讃」の二首は『浄土和讃』の最初の和讃で全体の大意を述べる序の部分にあたります。浄土真宗での信心を勧めて、阿弥陀佛の本願を疑うことを誡めています。漢文ではなく和語で表現されていると言っても、古文なので少しわかりにくいかもしれませんので、現代語で解釈を試みました。
一首めは以下のように受け取らせております。
信心を本当に賜った方は南無阿弥陀佛の名号を称えます。そのとき心中には、阿弥陀如来の本願力を賜って以来、我が身に満入した血の通った温かい彼の佛の憶いが夜昼途切れず、常に湧き起こっています。だから、阿弥陀佛の恩に報いずにいられないのです。
二首めもこのように現代語に置き換えてみました。
凡夫である人間が、おもい計ることなどとてもできない広大無辺の阿弥陀佛のご本願の不思議なことを疑って念佛を称えている人もあります。その人の往生は浄土の宮殿の中で五百年間、そこから出ることもできず空しく過ごす事になると説かれています。
全体の大意をお示しになるということは、親鸞聖人が極めて大切だとお感じになっていることであることがらを詠まれていることと拝察されます。それは一体どんなことでしょうか。この二首の御和讃に共通してあるのは念佛する人です。「信心まことにうる」人と、「誓願不思議をうたがひて御名を称する」人が称える念佛の二種類を親鸞聖人は詠まれています。その姿勢について、本願を信じて真実信心を獲ている人と、疑っている人のことを言われたと言い換えることができます。
信心を獲るということについて、浄土真宗三代目宗主である覚如上人は『御伝鈔』の二段に、法然聖人から教えを聞いた親鸞聖人が阿弥陀佛のご本願を賜ったことを、このようにおっしゃいます。
「真宗紹隆の大祖聖人、ことに宗の淵源を尽し、教の理致をきはめ て、これをのべたまふに、たちどころに他力摂生の 旨趣を受得し、あくまで凡夫直入の真心を決定しましましけり。」
「真心を決定」というのは真実信心が決定した、ハッキリ定まったという意味です。同じく、信心をうることを蓮如上人は『御文章』の中で、何度も「信心獲得」、「信心決定」と書かれています。これは、今生に於いて、いま、ここで、信心が定まる時があるということです。親鸞聖人も、覚如上人、蓮如上人も「信心」を獲ることを勧めてくださっています。特に蓮如上人は一日も急いで信心を獲得しなさいと教えられました。
それでは、信心を獲るということはどのような状態になったことを、いうのでしょうか。親鸞聖人は『一念多念文意』の中に次のように述べられました。
「聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。」
本願を聞いて疑う心がないことを信心だということです。だから、一首めはまことに信心を獲ているので疑いがない状態で、二首目は疑う心があるということです。
信心を獲ているかいないかは、この疑いの心の有無により、これが私たち人間を迷いから脱け出せない原因になっていると親鸞聖人は法然聖人の教えとして「正信偈」の中に次のように教えてくださいます。
還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入
「生死輪転の家に還来することは、決するに疑情を以て所止と為す、速やかに寂静無為の楽に入ることは、必ず信心を以て能入と為す』といえり」と読みます。
法然聖人は、 私たちの苦悩の根元、原因は阿弥陀佛の本願を疑うことにあると明らかにされました。この疑いさえなくなれば、二度と迷わぬ身となって、この世から未来永遠の幸せになれるのだから、はやく疑いを晴らしていただきなさいと勧めてくださったのです。
ここで、疑いについてあるたとえを持ってお話しいたします。私は大学受験の為に浪人までさせていただきほかの人よりも余計に勉強いたしました。どうしても入りたい大学があり、そのレベルの大学でなければ行く気になれなかったので、とにかく寝る時間も惜しんで、髪を乾かす間も、歩く時も英語や古文の単語や歴史の用語を覚えるなど、必死に勉強していました。そして全部の試験が終わってから、合格の通知が来るまでが受かっているかどうか不安でなりませんでした。これ以上浪人するわけにもいかず、絶対に合格しなくてはなりません。
最終の私学の試験が終わってから、家に通知が来ていないか電話すると弟が出ました。「何だか分厚い封筒が立命館大学からきているけど」と電話口で言われました。そのとき、おそらく合格しているのではないかと嬉しい反面、でも違っていたらどうしようかという不安も出てきました。弟が別の大学と勘違いしていっているのではないかとか色々な気持ちが出てきます。帰って、封筒を開けて、合格の文字を見た時やっと疑いが晴れました。まだ、大学生になったわけではありませんが、四月から大学で学ぶことが許可された者という扱いです。
譬えなので、合わないこともありますが、どういうことを表現していたのかお聞きください。合格を確認したというのは、疑いが晴れる前と後の前後があったということです。いつとはなしに合格して、受かったのか受かっていないのか定かではないということです。当日合格発表を大学内の掲示板に見に行き、しっかり見た人はその日時がハッキリします。私のように関西の大学の地方試験を東京で受験した者などは、郵送での発表で合格を知ることもあるでしょう。この場合、合格発表と家に合格書類が届くのにはタイムラグがあります。いつ合格したか正確に何時何分までは分からなくても、入学金を払うなど様々な手続きをしなくてはならないので、西暦、元号何年の三月の末頃に合格したということくらいは後になっても覚えています。
親鸞聖人も教行証文類 化身土巻にこう言われています。「愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す」
建仁年間の辛酉の年は、建仁元年に相当し、西暦1201年で、親鸞聖人29歳の年で、九歳で得度され、二十年間修行と学問をされた比叡山を下りられ、法然聖人のもとに赴かれた年です。この時を、聖人は「雑行を棄てて本願に帰す」廻心の体験、すなわち、自力の行では間に合わなかったと阿弥陀佛の本願に帰命した、信心を賜ったと書かれています。これは、阿弥陀佛の本願に対して疑いが晴れたということです。浄土真宗は二度生まれることがあると説かれています。一度目は肉体が生まれたときです。二度目は阿弥陀佛の本願への疑いが晴れ、正定聚の身に生まれたときです。
大学に合格した後、入学するまでの春休みは、まだ、大学生ではないけれど、大学生になることが決まったということを、人間が終っていないので、極楽には往生していないけれど、正定聚の身に救われて、一息切れたら往生間違いがないと確定したことをたとえました。正式な通知を見るまでは、あれこれ考えて、不安な気持ちが収まりませんが、合格を確認したら、もう疑わず安心していられます。一度合格したら、取り消されることはありません。信心も後戻りはしません。
高校から大学というのは制度的にも、学問的にも大きく異なりますので、特に予習をすることもなく、思い切って好きなことができます。大学に行く前から専門的な勉強を始めており、専門家とも面識があるような特殊な学生は一足早く勉強を始めているかもしれません。でも、ほとんどの高校生は受験で精一杯で、そこにかなりのエネルギーを注いでいるので、リフレッシュ期間として大学に期待に胸を膨らませてぼんやりと過ごしているようです。
正定聚に定まっても、未だ煩悩も無くならない凡夫のままなので、佛さまのような無条件の慈悲の衆生に対する救済活動は出来ないので、春休みの大学入学が決まった人たちも、一部の優秀な学生以外のように、何もできない中、救われたことをよろこんでいるだけの人が多いのかもしれません。
このたとえには、一つだけ大きく異なることがあります。大学受験は努力した原因が結果として実を結びましたが、信心は全て阿弥陀佛のお手回しであるので、私が頑張った結果、救われたのではないのです。生死を超えたい、迷いから抜けたいという気持ちで、悪を怖れ善行に励み、念佛を称え、聞法を重ねたことが、決して間に合ったのではないのです。これは全て阿弥陀佛を悲しませる行為なのです。なぜなら、「我にまかせよ」というお言葉を疑っているからです。信じられず、あれこれ計らって、受け取ることができないでいたのです。
ここで、自分の力は間に合わない、全て阿弥陀佛のお手回しだと申しましたが、それでは、浄土に生まれることを願わない人も助かるのかといえば、御縁がないことには佛さまでも無理な話です。まず阿弥陀佛のお浄土に生まれること願いを持ち、疑いが晴れることから始まります。そういう願いを持たない人が浄土に生まれるということはありません。大学入試でも、大学受験をして合格して大学生になりたいという願いがない人は大学生になる事は出来ないのと同じです。大学は試験勉強に励み、試験を受けて、その大学で学んでいけるだけの能力がある人を合格させます。本人の努力の結果で合否が決まります。しかし、阿弥陀佛の本願は、救われたいという願いを持った人が、頑張った結果、それが間に合うのではなく、何の役にも立たなかったと知らされたとき、受け取ることができるのです。小手先の修行や、善を賄賂のように阿弥陀佛に差し向けるのは、疑っている証拠ですので、本当の阿弥陀佛の御心を受け取る事は出来ないのです。ちょうど入れ物に何かが一杯入っていると、それを抜かないと入らないのと同じです。いくら尊い本願の力が私に絶え間なく働いていても、そのお力を疑い、自分の力が間に合うと跳ね除けていては、受け取ることはできません。私の力では迷いを抜けて、正定聚の身に救われることができなかった、金輪際助かる縁手掛かりがなかったと心底知らされたと同時に、阿弥陀佛の光明が届き、救われるのです。
以上のように、疑いなく阿弥陀佛の本願を信じて念佛を称える人は、正定聚に定まり、死んで往生極楽の身に生まれるまで、常に阿弥陀佛との二人旅をさせていただく身になるので、常に阿弥陀佛の御恩を感じ忘れることがないのです。しかし、疑いの心を持ったまま念佛を称える真実信心を獲得していない人は浄土の宮殿に五百年閉じ込められると親鸞聖人は教えてくださいました。
肝要は御文章を拝読させていただきます。
聖人一流の章を拝読する
