信心の話をした方が、ご自身の状態についてを書いてくださったものを投稿します。(Fは私です)

まず以前の体験をにぎり放したくないという気持ちと現状がわからないと前に進めない。

少しの疑いがあればおかしいとおもい自分ではわからないので聞いてもらいたいと連絡をしました。

F これを信心の沙汰と言います。おそらく真宗カウンセリングとも

最初の聖人一流章を読むところで後半不可思議の願力として・・・・になにかひっかかるものがあり正直にいいました。

F お聖教をこう読んだら、こう解釈したら救われた境地になれるのだという自分の力を当てにする気持ちがあったのですね。

やはり体験を、まかせたを握っていたからもやもやがおこるんだ、安心したい心が仏様をつくっていた。現状の確認がおかげさまでできました。

F 信心を賜った人、もしくは東条英機のような御縁が深い人なら教学を極めた人からでしかその境地は聞けません。

前後ではなく空間。次元をかえられるというお話。

前後、これだからだめ、こうすればというのは自分の判断でそれが先延ばしにしている。全くその通り。信じたら信じてるから、まかせたらまかせているから、念仏したからも

すべて疑い。疑いでなにかして不安を消そうとしていただけ。

ただ次元がかわるってどういうこと?無理じゃないか?

F ロジャーズと西光さんの対話でロジャーズはこの世の最高の真理をして阿弥陀如来を位置づけました。西光さんはこれではだめだと感じました。阿弥陀如来の本願力はこの世を超えた別次元の地平のものなのですから。

直線の100メートル走のように出発点があり、ゴールがあると信仰の過程を捉えている人があります。この思い込みが三次元の世界の前後を想起させる元となります。信仰の過程は螺旋、スパイラルのようなものだと私は実際通ってきてそう感じております。同じ所を何度も何度も迷いながら回って、その次元、地平から一歩たりとも出られずにいる。ところがあるとき、何かのはずみで別の次元、地平に自分がいることにきづくというような感じです。ラジオのチューニングがあって放送音が流れ出すような感じでもあります。実際、阿弥陀さまのお姿や声が聞こえたわけではありませんけれど(*方便としてのものを見聞きできたという人もあります)、炭に火が付いたようなものだと言われる方もあります。真っ黒い炭は変わらないのですが、あたたかい火と一体になる体験ということです。何も変わらない中、心が大変わりするのです。ご存じでしょうけれど、これを回心ともいいます。

次第ともうむりだ、今日は電話を切ろうと逃げる心が起きました。

いま、ここできかないときけない。今が続くだけ。

まったく私の心を見透かされた気分。

このあたりで次第とFさんの声によって仏様に従おうという気持ちになり

それと同時に逃げる心がしぼんでいきました。

とくにもしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せんの親鸞様の言葉はF先生のゴムのお話のように永遠が今に集中してきました。

今までおもっていた、逃げたり、もとめたり、苦しいのになぜ繰り返しているのかという疑問。にげたままでもいいのに。もどるのは苦しいのが好きなんではないか。

迷いがすきなんよという言葉に、永遠に迷いたいのが本心でそれをさせたくない仏様を傷つけている。

F 迷いや疑いが苦しいと思っている人も多いです。しかし、実際は楽しいのです。迷っているので狐に化かされた人のように馬の糞尿をご馳走だ、美酒だと慶んで飲食しているのが迷いの世界の住人です。ご欲に塗れ、死んでいくときに何も役に立たない名利に心を奪われ、真理を求めようとせず、せっかく尊い教えに遇えたのにまた迷いを繰り返すのです。

石の話を煩悩悪業の話と聞き間違いをしてて驚きました。

F 法然聖人は私たちが生死輪廻を繰り返すのは疑情(阿弥陀仏の本願力を疑う心)だとハッキリ教えてくださっているのに、信前の人たちはそれが分からず煩悩が根本原因だと思っています。疑いの心が怖ろしいことは信心を賜ったものにしか分からないからです。

ほんの少しの疑いをすてれば、なくなればと言う、疑いを私の一部の捉えていましたが、まさか私全体が疑いだったとは。だから疑いしかでない。信じるも疑い。念仏も。すべて私からはすべてうたがい。

まさか自分が疑いの塊だったとは、そしてその疑いの塊が仏様の救うお目当てだったんだ。

そこで気付いたのが心がかわっていた。空っぽになってた。不思議。

なろうとしてなったのでなくなっていた。いつのまにか。

よく言われる「疑いをとるのも仏様のお仕事」

その仕事を私がしようとしていた、できるとうぬぼれていた、しないといけないと自分で判断していた。なにもいらない。なにも必要なかった。

まったくしずかなこころ。おだやかなこころ。

難信金剛の信楽は疑を除き証を獲しむる真理なりと。

仏智満入。仏語は本当だった。

獲信はものすごいものだとイメージしていたので、あっけなかった。

しかし時間が経つと自分の心をみてこれでいいのか?また自分の心にだまされて安楽椅子にすわったのではないか。そう思うと心がうごきだす。

仏様より自分がかわいい心がある。

Fさんに聞きたい。逃げずに時間を頂いて正直に話す。

夢の中でうじが尿をのんでよろこんでいるようなもので夢の中だからさめたらなくなる。私の心のものはすべて夢でやくにたたない。

はたけの石のたとえで私のなかから確かなものはない。

届いたこころがあるでしょ?ある。

舟にのったでしょ?あ、そうか。

自分がかわいい?それは煩悩。仏様はもっとかわいいと思っておられる。

高松先生(真宗学寮、広島仏教学院理事長)のお話をおききする。

臨終で後生が不安になったご門徒さんに先生は普段聞かれたまま「私にはなにも救いにおいて確かなものはありません。仏様がすべて用意してよんでおられる。私もたしかなものなしで参ります。」

ご門徒様はそれをきいて高松先生と一緒に仏恩報謝のお念仏をされたという話。

私のさがすたしかなものはすべて夢のなかのもの。幻。ただあまりにいろんなすごい獲信体験をきいていたのと、自分が勝手にイメージしたものとあまりに簡単な通過だったので、あっけにとられ自分の心をみてこれでは…と通過後、心のなかにたしかなものをさがしたがなにもなかったといわれる先生はよくおられた。

F他人が賜った話を聞いて自身の体験と比べてこんなあっけない、簡単なものではないはずだと感じる人は多いです。だから、いままでお話させていただいた方の中でも2,3日、1週間、1カ月くらい尋ねてくる人もあります。

親鸞様のお言葉。

よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは、煩悩の所為なり。

ないのではなくおさへて。この状態なのか。

これからもすこしゆらぎはあるかもしれませんが、仏様のおこころを聞いてよろこばせていただきます。

F死ぬまで凡夫の私たちは煩悩に翻弄され続けます。地下水のように信心の水は流れているのですけれど、ほとんどの人は井戸を掘って水が湧き出てくるくらいでしか慶べないのかもしれません。どうぞ聴聞を続けてください。また、僧侶の立場でお母さまなど御親族、お寺でお世話になっている方々、ご友人などに阿弥陀如来の本願力のましますこと、いまここで救われることを臨終までお話しください。

南無阿弥陀仏

F南無阿弥陀仏