昨日、御縁の深い方が今の心境をメールで書いておくって下さったのでお返事いたしました。(Fが私のお返事です)お返事を差し上げた後、チャットよりも対話がいいと言うことでしたので、メッセンジャーお話ししました。ご本人の許可を得られたので、投稿いたします。
「お寺ではないが本堂のある家にうまれした。僧侶としては4代目になります。
保育園児の時、母より人間はいつか死ぬときかされて、悲しくなって泣いて、なら努力しても無駄になる、なんで生まれてきたのか、生まれてこない方がよかったんだと思う。
死への恐怖はありながら、普通に生活していた。
F 私は物心ついたときからこの状態でした。
高校生一年で家族に願われてみかえりを要求して得度。
その時親鸞聖人について色々きいたのが後に求道につながったし
領解文にはなにかものすごいことがあると意味はよくわからなかったけど感じた。
F 領解文は有難いです。
高校二年の時、父が急死。命のはかなさと自分の死が近く感じた。
F 私の父は2016年他界しました。81歳でした。立命館大学大学院に転入した年でした。私も後始末などで3ヶ月後にやっと泣けました。同じです。でも、おばあちゃんが15年くらい前に往生したときは3ヶ月毎晩泣いていました。
また悲しいが次第に涙がでなくなった。薄情だとおもった。また自分の生活を気にする心があり、親が亡くなったのに自分の心配か、汚いと思った。自分の心がこわれているからそんな心があるだけだと思ったが法話で石川五右衛門の最後の話をきいて同じ心だとわかった。
F どんなお話しだか教えて下さい
それでもしかして仏法は本当で自分でも助かるのではないかと求めだした。
F 高校二年から三年の春休みに歎異抄を3回謹書しました。出も阿弥陀仏にどうしたら救われどうなったのが信心だか分かりませんでした。だから親鸞聖人の教えを大学で聞こうと思いました。でも浪人中に浄土真宗の団体と縁があり、30年近くそこにいて出ました。止めた後、別の団体のMさんにそこに入るべきか聞きに行き、どちらでもいいと言われ、一人で阿弥陀仏と対峙しました。念仏三昧の日々を何ヶ月も送りました。
まったくわからないときに「仏さまから信心をいただければ浄土にお参りできる。浄い心だから浄い世界にうまれる」ときき仏様から信心をいただければたすかるとわかり喜ぶ。しかし法話をきいても信心がわからない。ただ真面目にもとめていると天狗になっているときにM先生の御法話をきいて驕慢のこころを間接的に指摘されて、反省するとともにその団体へ入る。
煩悩はお許し、自力の心が本願を疑い計らい邪魔をしている。罪悪感、無常観を見つめて自力が廃るとき仏様からナムの心が届くとおしえられた。
よろこびを聞いたと判断しその後気付いたが苦しくなって逃げる。
F「れば、だから」はいまここじゃありませんね
そのご二十年以上たって死がきになりだす。
F 信心の沙汰のお相手のはりまさん(Hさん)も30年後にお父さまを胃がんで亡くされ自分の死が気になって、検索で私のブログに辿り着きました。
逃げているばかりだからいつまでも同じ、どうにかしないと思っていたときに
ネットでKさんのブログをよみ、真理に出会ったひとだと思い連絡をとる。
F なぜこの方、Kさんが真理に出合った方だと思われたのですか?それと同様に私がそうだと感じられたのですか?
なにもいらない、もとめているなら出遇って欲しいという態度でおられた。とにかく自分の心のうごきをみろ、心に仏様のひかりがあたっているからといわれた。信心はない。かならず私の信心には疑いがまざるからと大事なことも教えていただいた。自分の心をみつめるが、救われて人に話したいという名利の心があり、よそ見をしている心があるし、心は脳とは関係なくうごいていて制御できないと気付いた。心をみていってこれか?信心はと思う度に、なにか疑いの亀裂をいれられて崩された。その時は仏様の力でこわされたと思った。
何度もこわされ、何度もKさんに汚い信心をつかむなといわれてもう何も考えられなくなって真っ白になったとき、南無阿弥陀仏は佛様の声だと感じそれが信心と思った。あとから思えば重誓偈の名声聞の声だと思う。
F 自分を見ても何もなりません。見ることが出来ないくらい大きな迷いだからです。だからいままで迷ってきたし、これからも迷うのです。阿弥陀さまをただ仰ぐしかありません。
江戸時代以降の妙好人と言われる方々は、ほとんどが学僧から話を聞きました。『仏敵』の伊藤康善さんも学問として仏教は学んでおいででした。信心は賜っていてもある程度教学がない方の話は迷いを生じることがあります。
Kさんから離れて時がたち、今から五年程前に苦しみだす。恥をかいてもこうさんのもとへ再びもどればよかったが躊躇する。そのころ助かる道を求めることは助からないとみられた仏様を疑うことだと気付く。法話ではきいていたが、助かる道があるはずと求めていた。それは自分が間違いないと思っているだけで、仏様に反抗していることに気付く。仏様をわかる力、信じる心もないし。その時に善導様の六字釈を仏様からのよびかけで、後生はまかせろ仏にすると言われている。なぜそこまでいわれているのか、仏様は助けたいからだと。まかせろは今まで大事にしてきたたすかりたい、たすかるはずをすてること。ほとけさまのお言葉を信じてすべてまかせるときめたとき、心から苦しめていたすーとなくなり楽になった。これが安心かとおもった。仏様にお礼を言ってそれから今八年たちます。いまどうなのかというと、信心は私がわかる、理解する、念仏する、これで助かるではなく、仏様の仏智が間違いないから助かる。
F 阿弥陀仏の本願力が真だから、それだけでいいのです。自分の信じ方は関係ありません。
しかしMさん、K先生のように死後浄土を実感する心がない。またまかせたという判断をにぎっているのではないかと。念仏は届いているが救いに反抗する心があるのでは、そのもやもやが疑いで計らいでは?疑いがみじんもあってはならない。こう考えるのはまだ突破できてないのかと考えております。考える必要があること自体おかしいのでは?考えや心が変わったら助かる、それができてないだけだというのは自力のはからいだしという心境です。
F 全ておまかせです。私たちは逆謗の屍なので上にも下にも行けません。自分の力で無明の闇を破ることは金輪際無理だと知らされたとき、死の恐怖が全くなくなりました。もし死んで地獄に行ったとしても阿弥陀さまがそうされたのなら後悔しません。法然聖人に対する親鸞聖人の想いと同じです。
めちゃくちゃだけど
できるだけ正直に書いてます。」
