浄土真宗の聴聞を重ねた人は「早く真理と出合いたい」と言わず、「早く楽になりたい」です。いま話している人は聴聞を子ども時代に意味も解らず聞いてきた人です。だから前述のようなことを言うのだときづきました。
十分に聴聞を重ねたら自力が間に合わず、自分の力で真理との邂逅が果たせるわけではないと頭では分かっているので、ただただ真理の方からの救いを願います。こういう理由で自分が何かして何とかなるということは言いません。
それでも救われることがあるそうだと聞いていた子ども時代から一歩進んで、どうなったことが救われたことなのかそれが知りたいし、自分も体験したいけれどどうしたらいいかわからないという気持になったことは慶ばしいです。願わくはこれが救われた世界だったのだと体感して欲しいです。
体験したいなら、どう聞いたら、どう求めたらという気持は出てきます。間に合わないと分かっていても何かせずにいられません。金輪際助かる縁手掛かりがないものだとは思えないからです。自身の力で何とかなれるという慢心からなかなか離れることはできません。心の中はなりたい一杯です。でも、それは無理だと言われることがわかっているので口にしないだけです。
このように真理との邂逅を果たし生死を超えることに関して、努力して、頑張って何かを獲るという世間の常識と正反対のことを浄土真宗では教えるので、そこの認識をまず頭だけでも知る必要があります。これが聴聞です。聴聞だけでは知った覚えたの世界で、心の底から出てくる自力に苦しむことになります。そこで真理との邂逅を済ませた人との対話で前に進めることになるのです。
自身が通った経験がある人なら、辛く苦しい気持を受け止め真理とのお出合いの方向が示せるのです。真理に救われたと言っても人間なので仏ではありません。生死を超える身に助ける力はありません。ただ真理との邂逅を念じ気持の面で支えることくらいしかできません。それでも、実際救われる教えを知り、目の前に救われた人がいるということは大きな励みになります。
自分が、自分の力で、という自分ができるという慢心が最後の難関です。ここを突破して二度度迷いの世界に生まれることのない身になられることを念じるばかりです。
