もしいまここで求めている人がいて御縁があれば直に聞きに来ます。いままでもそうでした。大抵の人は生死を超える道すら知らないので、それを知ってもらうことが初めの一歩です。直ぐではないけれど、何らかの無常、罪悪が深まるご縁で思い出して聞きに来る人もいました。もちろん私以外の人と相性がいいなら来ないです。それはそれで構いません。そういう御縁です。
単に知りたいと知識を求める人が読んでも構いませんけれど、心に刺さり、心が揺さぶられることはその場ではないです。知識を求める人のために書いている文章ではないからです。タイムラグで後生が苦になったとき思い出されて、その時は真摯に求める人もあります。
このように鉄板に種を蒔くような投稿です。ほとんどの人が何を書いているか理解不能です。理解を超えていることはスルーするか批判し抗議するかです。今のところスルーが続いています。それはそれで平和でいいです。
十八歳で真理との邂逅が今生のいまここでできることを浄土仏教で教えていると知ってから、お経やお聖教の言葉でその境地をお話してきました。これでは、よほど御縁の深い人でない限り、救いがあることを知らせることはできても、実際体験してもらうことはできません。不浄説法とはこういうことです。救われる境地はあっても、その過程を自身が通っていなくて、方向性を示すことすらできないのは本当に相手のためにはなりません。体験がないので、感動も、報謝の気持ちもなく話を続けていましたけれど、何となくこれではいけない、ダメだと感じていました。
生死を超える道に出てからは毎日のようにSNSやブログでその境地を中心に方向性を示し、無常、罪悪におびえ真理との邂逅を願う人たちの力になりたいと書き続けています。これが何の足しになり、救いの機縁になるのかはわかりません。何人かの人は生死を超える体験をされ、慶ばれました。先に行って待っているからと、お浄土にかえられた人もありした。
なぜ書き続けているか、其れは死の不安が全く消えて、有縁の方々にお伝えしたいからです。こころのそこからその憶いが湧き出てきて言葉になったのをタイピングしているだけです。慶んで御恩報謝をさせていただいているので苦痛ではありません。かつての私のように死の解決が分からず絶望している有縁の方々に役に立てばそれだけで幸甚でございます。
