仏教における執着の見解

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2021年4月15日記録

昨日の仏教の講義でこんなことを聞きました。

 〇仏は執着すべきでないものに執着しない(覚り・安らぎ)

 〇他力真実信心の智慧を賜った人は執着すべきでないものを聞かせていただいているので、執着してしまってから、執着すべきではなかったことを知る(悲嘆・慚愧)

 〇他力信心を賜る前の人は執着すべきでないものに執着する(苦しみ)

 二番めの他力真実信心の智慧を賜った人について、私はもう少し加えたいです。親鸞聖人が信心を賜った人は酔いが覚める様になっていくとおっしゃっています。

 同様に、ひよこが卵から孵ってしばらくは何も見えないけれども、徐々に外界がハッキリするように周りが見えてきます。信心を賜った直後はぼんやりとしか見えていなかった周りのことがだんだんハッキリしてくると、執着する前にこれは執着してはならないという直感が働くようになり、事前に避けるか、一二度もしくは浅い関わりで執着を離れられるようになるように感じます。

 同時並行で起こることとしては、世間の名利よりも有縁に方々に同じ真実信心を賜れるようにお話したり、阿弥陀仏のご本願に救われる場面に触れることが比べ物にならないくらいのよろこびと感じられます。