2022年3月26日 

 娑婆世界を上手く乗切る方法も宗教も聞く人への忖度があります。つまり真髄に至るまでには方便が付随します。いきなり真理を聞く人は滅多にいないので。また方便は真理との邂逅が済んでいる人しか使えません。済んでない人は真実も方便も両方何が何だか分かりません。
 

 有用だと感じる情報を不特定多数の人に発信することは大切です。必要としている人がご縁があって見る可能性があるからです。でも、その情報が要らない人にはゴミ以下の迷惑な物なので、相手が尋ねないなら放っておくしかありません。無理に話しても軋轢が生じるだけです。

 何だか違う、嫌だと感じたら無理することはありません。そっと離れて距離を置いたらいいだけです。小さな違和感が実は理解不能なことを後に多くの時間を費やして知るほど残念で焦燥感が募ることはありません。人は自分が望んでいないのに教えられること説得されることを嫌います。

 どの時代、どの国、どんな境遇でどんな才能を持ち生まれるかは既に決まってしまった。そこでできる得意なことで各自が学ぶししかない。その学びの中、もう学べないと全ての学びを手放したとき、真理との邂逅がそこにある。この体験が今生でできるかどうかは縁次第。

 唯物論では私たちをより佳き方向に導いている真理の存在を認めない。でもそういう佳き導きが無ければ私たちは絶望の淵、虚無主義に陥ることになる。そして哲学者文学者は自ら死を選んだ者も多くいた。それは自身の上に体験できる救いを知らなかったからである。

 学問の世界では物事の解決対処法で困難や不幸を取り除くことに躍起になる。でも宗教はそれらの苦悩に寄り添うことを役目としている。本人にとってどんな辛い状況でも起きていることに意味があり、目を逸らさず受止めることが真理との邂逅につながる縁となることを伝える。

2021年3月26日  

 長いこと日本にいたら、耳に聞こえてくる話ことばだけではなく、漢字が書けたり、日本の道が付く何かでもしたらいいのにと感じます。頭が固く上しか見ない権威におもねると、学びが止まる危険性があります。

2019年3月26日 

 もうそれほど残りの人生が長くないので、色々なことを整理しています。優柔不断な性質で、なおかつ我慢強くて、なかなか捨てられないでいました。でも、それももう止めます。私利私欲の為というより、使命に必要な最小限を選択して、生きていく覚悟を決めました。あしからず。

 振り返ると、鳴かず飛ばずの私の人生でしたが、生死出づる道に出させていただいた後は、阿弥陀如来への御恩報謝の日々を過ごしております。しかし、今のままでは御恩報謝が全く足らず、お浄土で如来さまと再会した折、申し訳が立たないので、少しでも精進させていただいております。

 もうそれほど長く私は生きられません。だから、布教目的の論文等を書くために以外は、裏表のない言動だけができる人たちと一緒にいる環境に身を置く決意をしました。ほとんどが迷った人間の世界でも、阿弥陀如来と共にお浄土への旅をする方々とご一緒させていただけると安寧・満足の心持ちで心地よく生きていられます。