器が大きくないと他人の痛みは受け止められません。自身が沼地の中で這い回り泥水を啜るようなことがないと難しいです。法然聖人は目の前でお父さまを殺されました。お父さまの遺言どおり、幼いころから仏門に入り、気難しい師匠に師事し長年ご修行されました。理不尽な境遇に耐えられた経験が武士、農民、商人、遊女まで様々な人たちから慕われることにつながったのでしょう。

 宗教者は苦悩を抱える人たちに法を説くことばかりしていると思いがちです。しかし、それは最終場面なのです。来られた方の話を初めから最後まで聞き切ることなしに法は入っていきません。もう全部出し切ったとき、初めて来訪者は法に目が向きます。韋提希夫人が釈尊に思いの丈を全部言い切ったときから救済の話が始まるのと同様です。

 相手がどんな思いを抱いて自分のところに来たのか、どんなことが聞きたいかじっくり聞く前に自分の話を始めるわけにはいかないのです。世間的な煩悩による苦悩で一杯な人に法を説こうとしても無理です。初めに迷いの中での苦しい気持ちを受容した後でなければ、こちらの伝えたい法は受け入れられないのです。

 私も話し始めは法をとにかく伝えようとしました。そうすると上滑りになってしまって、阿弥陀さまの本願力の話が入っていきません。それで、心ゆくまでどれくらいでも、本人がこれでいいというまで相手の言われることを否定も肯定もせずただ受け止めることにしました。もう何も言うことがないところまで聞きました。いままでそういう聞き方をしてくれる人はいなかったと皆口をそろえて言いました。その後は仏縁に応じて、阿弥陀仏と対峙して救われる方もあり、力が及ばない場合もあります。ご縁次第です。それでも、苦しい胸の内を身内でない宗教者に話し聞いてもらったことで慶ばれます。

 器は大きくはないです。それでも来られた方の言われることは聞きました。聞かせていただいたことは他言しません。本当に大変なお話をたくさん聞いてまいりました。自分の事ではなくても一緒に泣き、救われたことを共に慶んできました。阿弥陀如来のご苦労に比したら私の活動は真似事以下です。それでも受けたご恩があまりにも広大で仏恩報謝は止まりません。