阿弥陀仏の本願力の救いを自分も信じ、他人にも信を勧める。このことを「自信教人信」と中国の唐の時代の善導大師は言われました。善導大師は日本の法然聖人をはじめとする浄土仏教の僧侶に多大な影響を与えた方です。
本来なら、まず自身が阿弥陀仏から信心を賜っていないと人には伝えられません。もし説法をしているならそれは不浄説法です。しかし、阿弥陀仏の本願力に救われている人は非常に稀です。だから未信であっても阿弥陀仏の本願力をそのまま伝えれば、特別縁の深い人たちは救われることもあります。縁の深い人たちとは自身の死が間近に迫っている、罪悪感に苛まれて苦しくて行き場がないような人たち、死ぬほどの苦悩で生きているのが辛く行き場がないようは、いまここで救われたい人たちです。
花山信勝が手垢をつけずそのまま阿弥陀仏の本願力を伝えたら、A級戦犯であった東条英機やその仲間は救われました。花山は、もちろん仕事で教誨師を引き受けました。信心を獲得していた否かは不明です。しかし、東条ら死刑囚と真摯に向き合い、ただ阿弥陀仏の本願力に救われることを勧めていました。死刑囚に明日という日はありません。いまここで救われなければ無常罪悪できりきり舞いしている中で死刑執行されるのです。
私たちも死刑囚と同じ立場にあります。必ず臨終はやってくるからです。何秒後かもしれませんし、10年後かも知れません。それは誰にもわかりません。しかし、50年、100年といってもあっという間のことです。水面にできた泡が出来て消える間くらいのものです。
そんな短い期間しか持たない人間であるにもかかわらず名利を求めることばかりにうつつを抜かして、布教、教育の任にある人たちがその責務を果たせるにもかかわらずしないことは遺憾です。自身が信心を獲得しているならばなおさらいまだ迷いの苦しみの中になる人たちの中に入っていって、阿弥陀さまの本願力がましまして、いまここで救われることをお伝えせずにはいられないはずです。まだであるなら、命が終わるまでに一日も早く信心を獲得して多くの人たちが同様に迷いから抜けられる活動をしてください。
自分は救われても、人が同じように救われるように言葉を使って話をし、態度で示せるようになるには何人もの方と接し、長い時間がかかります。自分が救われるよりも自分以外の方に伝えることの方がとても困難であることを私は身を以て体験しています。非力でも、無力ではありません。それは阿弥陀さまと共にあるからです。前を向いて進むのが仏恩報謝の道であるので臨終まで阿弥陀さまとお浄土までの旅を続けます。
